001上野の東京国立博物館(トーハク)さんの常設展示「総合文化展」。数ヶ月ごとに展示品を入れ替え、「近代の美術」の展示室(第18室)で光太郎や父・光雲の作が出されることもけっこうあります(常に、というわけではありませんが)。光太郎ですとブロンズの「老人の首」(大正14年=1925)、光雲なら「老猿」(国指定重要文化財 明治26年=1893)が多く展示されます。

現在の展示は8月6日(火)から。10月27日(日)までの予定です。「老人の首」と光雲の「老猿」がやはり出ています。

「老人の首」は、光太郎のアトリエ兼住居に花を売りに来ていた老人がモデル。零落した江戸時代の旗本のなれの果てだそうで。光太郎生前の鋳造で、昭和20年(1945)5月、花巻に疎開する直前に思想家・江渡狄嶺の妻・ミキに託したものです。
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それから光太郎木彫が2点出ています。

まず「鯰」。複数の作例があるうち「鯰1」とナンバリングをされているもの。大正14年(1925)の作です。
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ぬめぬめ感がたまりません(笑)。

この「鯰」はトーハクさんでも時々展示され、それから他館の光太郎展的な展示に貸し出されることもありますが、今回もう1点、そうでない作品が出ています。実はコロナ禍中の令和3年(2021)にも出ていたそうですが、その際は気づきませんでした。

「魴鮄(ほうぼう)」(大正13年=1924)。
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他館での光太郎展等だと、昭和41年(1966)、西武百貨店7階SSSホールで開催された「詩情に生きる〈美と愛〉 高村光太郎と智恵子展」に出されたのが最後ではないかと思われます。したがって、当方も現物を見たことがありません。出品目録によれば「個人蔵」。おそらく寄託されているのだと思われます。

現存が確認出来ている光太郎彫刻は、70種類あるかどうか。ブロンズは同一の型から抜いたものが複数存在するものが多く(代表作「手」など)、のべにすれば倍増しますが、木彫は1点ものですし。

さらに70種類程のうち、ブロンズでもそうですが、特に木彫で「大人の事情」により、ほとんど観ることが不可能になってしまっている作品もかなりの数存在します。中にはそうこうしているうちに火災で焼失してしまったらしい、と云われているものも。

「魴鮄」もそれに近いのかな、と思っていたのですが、健在が確認出来、さらに展示が為されているということで、喜ばしい限りです。

明後日あたり、拝見に伺います。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

のりは御母上の思召のよし、何ともありがたく存じました。朝食に焼いていただくと子供の頃の事をおもひ出しますし、又「智恵子抄」の中の「晩餐」といふ詩の中の「鋼鉄をのべたやうな奴」といふ句をも思ひ出し何ともいへずなつかしい気がします。


昭和23年(1948)12月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

岩手の山中での暮らしだと、海苔はなかなか手に入りにくかったようです。

「晩餐」(大正3年=1914)は下記の通り。

   晩餐1008

 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)から
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて1005
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ