一昨日、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で第33回女川光太郎祭が開催されまして、その模様を昨日ご紹介しましたが、その前後や途中に女川の街中をぶらぶら歩きましたレポートを。

光太郎祭の前夜、8月8日(木)、女川に到着。毎年泊めていただいている女川駅裏にあるトレーラーハウス式のホテルエル・ファロさんに今年も宿泊。
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ユニットバスが付いているのですが、駅舎内に天然温泉ゆぽっぽさんがあり、毎年こちらに入らせていただいております。
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長距離運転の疲れを癒やし、ホテルに戻ってぐっすり就寝。

千葉の自宅兼事務所ですと、毎朝、午前5時にこいつが起こしに来ます。「朝ごはんよこせ!」と(笑)。
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そのため旅先でも絶対に午前5時に目が覚めてしまうようになってしまいました(笑)。

そこでぶらぶら街歩き。

まずは港の光太郎文学碑に。ちょうど日の出でした。
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昭和6年(1931)8月、光太郎がこの地を訪れたことを記念して、平成3年(1991)に建てられたもので、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧されました。

ただ、元々4基あったうちの2基は津波で流され行方不明。建立に奔走した女川光太郎の会の貝(佐々木)廣氏も還らぬ人に……。

町役場に建立された東日本大震災の慰霊碑。貝(佐々木)氏の名も。
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それぞれの碑に手を合わせて参りました。

震災直後、当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちが、震災の教訓を後世に残す活動の一環として、津波到達地点より高い場所に目印となるように石碑を建てることを発案。費用はかつて光太郎文学碑がそうしたことに倣い、全額募金で賄うことにしました。「いのちの石碑」です。
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そうして10年あまりかけて、町内の海岸21箇所に碑が建てられました。

震災から2年後の平成25年(2013)、中心メンバーの生徒さんたちが通っていた旧女川中学校に建てられた第1号碑。久しぶりに拝見に伺いました。
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女川光太郎祭会場のまちなみ交流館さん内に展示されているパネルから、その除幕の様子。ここに映っている生徒さんの中には、かつて女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読を複数回やって下さった方も。
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そして震災から10年後の令和3年(2021)、移転して小中一貫校となった女川小中学校さんに最後の第21号碑が竣工。
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女川の中心街を見守るように立っています。
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現在、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が発令されています。ちょうど今年、碑を建てた中心メンバーのお二人が、南海トラフ地震での被害が予想される高知県の中学校さんで、ご自身の体験などをご講演なさいました。何ともタイムリーなタイミングでした。
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「いのちの石碑」関連 in 高知 その2。

大きな被害が出ない程度に地震のエネルギーが分散し、終息することを望みます。

一旦ホテルに帰り、朝食を摂ったりのあと、午前10時に再び文学碑へ。献花です。
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もちろん光太郎に、それからかつて碑の建立に奔走された貝(佐々木)氏に、そして碑文の一部を揮毫された亡き北川太一先生に、万感の思いを込めさせていただきました。

それまで気がつかなかったのですが、碑の近くにはスケートボードパーク的な施設も出来ていまして、子供たちが練習中。
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ちょうどパリ五輪開催中ですが、ここからオリンピアンが巣立つようなことがあれば素晴らしいですね。

これも碑の近く、津波で横倒しになった鉄筋コンクリート造りの旧女川交番。震災遺構として保存されています。
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こうした建物被害などは防げないのかも知れませんが、人的被害は防げるはず。女川の様々な教訓を各地で生かして欲しいものだと思いました。

昼食は光太郎祭会場のまちなみ交流館さん向かいのお店で、海鮮釜飯(1,380円)。美味でした。一帯の商店街・シーパルピア女川さんは既存の施設があとからそのまま道の駅となった珍しいケースです。
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最後に光太郎祭のあと、懇親会が始まる前の夕刻の海。
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こんな女川町です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今年はサンマがたくさん出廻ったので先月あたりはサンマを例年よりも多くたべました。今はカジキマグロが時々出廻って入手出来、去年よりも栄養はいい方です。学校のそばの開拓事務所で魚類を時々取次いで売るので便利になりました。

昭和23年(1948)12月23日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区には、おそらく一軒も商店がありませんでした。村の中心部まで行けば多少はあったようですが、それも数㌔先。開拓事務所(これとて山小屋から1㌔近く離れていましたが)で魚の移動販売が始まったのはありがたかったでしょう。たぶん三陸の魚がメインだったと思われます。