今月初めの『朝日新聞』さん岩手版から。光太郎と交流の深かった日中ハーフの詩人・黄瀛に関して。光太郎にも言及されています。
《黄の生い立ちは?》
1906年、中国・重慶で生まれました。父は黄澤民(たくみん)、母は千葉出身の太田喜智(きち)。喜智は小学校を2回飛び級するほど優秀で、東京女子高等師範学校を卒業後、日清交換教員として重慶に赴任し、澤民と結婚します。
澤民は黄が3歳の時に亡くなったため、喜智はしばらく中国を転々とした後、黄が8歳の時に千葉県に戻ります。
《詩作を始めたのは?》
黄は中国籍のため地元の中学校に進学できず、東京の中学に通います。喜智も中国籍のため小学校教師の職を追われ、中国の天津に渡って石炭販売業を営みながら、日本の黄に送金します。
23年、日本では大きな転機となる関東大震災が起きます。東京の中学の授業がストップしたため、黄は青島の日本中学に編入します。
そこで高村光太郎の「道程」などを読み、詩作に励み始めます。25年には新潮社が発行する詩誌「日本詩人」の第1席に選ばれ、詩人としての名声を得ます。
青島の日本中学を卒業後、帰国して文化学院に入学し、草野心平と交友を深めます。黄と心平は度々、光太郎のアトリエを訪れます。
《賢治との出会いは?》
24年に賢治が詩集「春と修羅」を出版すると、心平は賢治の才能に驚き、心平が創刊し、黄も同人となっている詩誌「銅鑼(どら)」に参加しないかと誘います。賢治は快諾し、「銅鑼」に「永訣(えいけつ)の朝」を発表します。
黄は文化学院を中退後、陸軍士官学校に入学。29年、卒業直前に行った北海道旅行の帰りに花巻に立ち寄ります。賢治は病床にありましたが、1時間ほど会話を交わしたようです。冗談好きの賢治は「お会いできて、コウエイ(光栄)です」と出迎えました。
《その後の黄の人生は?》
黄は37年に日中戦争が起こると、日本との関係を絶ち、中国大陸で国民党の将校としての道を歩みます。しかし49年、国共内戦で中国共産党に捕らえられ、重労働を課せられて獄中へ。66年の文化大革命では日本との関係がただされ、再び獄中へと送られます。
合計で20年もの獄中生活を体験した黄に光が当たったのは78年。重慶の四川外語学院で日本文学を教える職に就いてからです。教壇に立った黄が真っ先に取り上げたのが賢治でした。黄の教え子からはその後、中国で賢治作品を広める多くの研究者が生まれています。
私は92年、重慶で黄に初めて面会しましたが、政治に触れる話を避けたいという気持が伝わってきました。「今も詩を書いていますか」と聞くと、「書いていません。自分の存在自体が詩でありたい」と答えました。
黄は96年、賢治生誕100年を記念して67年ぶりに花巻を訪れ、「皆さんの力で賢治はいよいよ世界的になるところです」と語っています。
最初に紹介されている佐藤氏御著書『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』についてはこちら。
今回の記事では紙幅の都合上、細かなところは語られていませんが、紹介されているエピソードだけでも黄の「数奇な人生」ぶりが分かりますね。
光太郎は黄の才能を高く評価、大正14年(1925)のアンケート「十四年度作品批評」では、真っ先に「知人のせゐか黄瀛君にひどく嘱望してゐます」とし、さらに昭和9年(1934)に刊行された黄の詩集『瑞枝』には序文を寄せました。
また、黄をモデルに彫刻も制作。
ただ、おそらく戦災で焼けてしまったと考えられ、現存が確認できていません。
この彫刻を作っていた大正14年(1925)、黄が中国で知り合った心平を光太郎に紹介しました。そして翌年には黄や光太郎と共に心平の『銅鑼』同人でもあった賢治が光太郎のアトリエを訪問します。二人の天才、生涯ただ一度の出会いでした。さらに記事に有る通り、昭和4年(1929)の黄と賢治の会談。
そう考えると黄はいろいろなところでのキーパーソンですね。昨日触れた画家の柳敬助同様、もっともっと知られていていい存在と思われます。
最後の黄の言葉「自分の存在自体が詩でありたい」は、賢治、心平、そして光太郎にも共通する考えだったようにも思えますね。
【折々のことば・光太郎】
御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中でよみました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持がよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感嘆には十二分に共鳴を感じます。まだきつと読みかへすでせう。これは記録としても貴重な文献です。
『絶後の記録』は、賢治研究家としても有名な小倉が自身の広島での被爆体験を綴ったルポです。翌年には海外輸出版が刊行され、そちらには光太郎が序文を寄せました。現在も流通している中公文庫版にはこれが転用されています。原爆の惨状が一般にはあまり知られていなかったこの時期、光太郎は書かれている内容に瞠目したようです。
また、改めてこの愚かな戦争に加担していたことへの自己嫌悪をももたらしたのではないかとも考えられます。
昨日は広島、明後日は長崎の原爆の日、来週には終戦の日。いろいろ考えさせられます。
北東北の詩人・宮沢賢治の友人に、黄瀛(こうえい)(1906~2005)という詩人がいた。中国人を父に、日本人を母に持つ黄は、日本語で詩を書き、名声を得た後、国民党の将校として中国共産党の捕虜になったり、文化大革命で獄中生活を送ったりした。黄が歩んだ数奇な人生について、書籍「宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯」の著者で、宮沢賢治学会前副代表理事の佐藤竜一さん(66)に聞いた。
《黄の生い立ちは?》
1906年、中国・重慶で生まれました。父は黄澤民(たくみん)、母は千葉出身の太田喜智(きち)。喜智は小学校を2回飛び級するほど優秀で、東京女子高等師範学校を卒業後、日清交換教員として重慶に赴任し、澤民と結婚します。
澤民は黄が3歳の時に亡くなったため、喜智はしばらく中国を転々とした後、黄が8歳の時に千葉県に戻ります。
《詩作を始めたのは?》
黄は中国籍のため地元の中学校に進学できず、東京の中学に通います。喜智も中国籍のため小学校教師の職を追われ、中国の天津に渡って石炭販売業を営みながら、日本の黄に送金します。
23年、日本では大きな転機となる関東大震災が起きます。東京の中学の授業がストップしたため、黄は青島の日本中学に編入します。
そこで高村光太郎の「道程」などを読み、詩作に励み始めます。25年には新潮社が発行する詩誌「日本詩人」の第1席に選ばれ、詩人としての名声を得ます。
青島の日本中学を卒業後、帰国して文化学院に入学し、草野心平と交友を深めます。黄と心平は度々、光太郎のアトリエを訪れます。
《賢治との出会いは?》
24年に賢治が詩集「春と修羅」を出版すると、心平は賢治の才能に驚き、心平が創刊し、黄も同人となっている詩誌「銅鑼(どら)」に参加しないかと誘います。賢治は快諾し、「銅鑼」に「永訣(えいけつ)の朝」を発表します。
黄は文化学院を中退後、陸軍士官学校に入学。29年、卒業直前に行った北海道旅行の帰りに花巻に立ち寄ります。賢治は病床にありましたが、1時間ほど会話を交わしたようです。冗談好きの賢治は「お会いできて、コウエイ(光栄)です」と出迎えました。
《その後の黄の人生は?》
黄は37年に日中戦争が起こると、日本との関係を絶ち、中国大陸で国民党の将校としての道を歩みます。しかし49年、国共内戦で中国共産党に捕らえられ、重労働を課せられて獄中へ。66年の文化大革命では日本との関係がただされ、再び獄中へと送られます。
合計で20年もの獄中生活を体験した黄に光が当たったのは78年。重慶の四川外語学院で日本文学を教える職に就いてからです。教壇に立った黄が真っ先に取り上げたのが賢治でした。黄の教え子からはその後、中国で賢治作品を広める多くの研究者が生まれています。
私は92年、重慶で黄に初めて面会しましたが、政治に触れる話を避けたいという気持が伝わってきました。「今も詩を書いていますか」と聞くと、「書いていません。自分の存在自体が詩でありたい」と答えました。
黄は96年、賢治生誕100年を記念して67年ぶりに花巻を訪れ、「皆さんの力で賢治はいよいよ世界的になるところです」と語っています。
最初に紹介されている佐藤氏御著書『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』についてはこちら。
今回の記事では紙幅の都合上、細かなところは語られていませんが、紹介されているエピソードだけでも黄の「数奇な人生」ぶりが分かりますね。
光太郎は黄の才能を高く評価、大正14年(1925)のアンケート「十四年度作品批評」では、真っ先に「知人のせゐか黄瀛君にひどく嘱望してゐます」とし、さらに昭和9年(1934)に刊行された黄の詩集『瑞枝』には序文を寄せました。
また、黄をモデルに彫刻も制作。
ただ、おそらく戦災で焼けてしまったと考えられ、現存が確認できていません。
この彫刻を作っていた大正14年(1925)、黄が中国で知り合った心平を光太郎に紹介しました。そして翌年には黄や光太郎と共に心平の『銅鑼』同人でもあった賢治が光太郎のアトリエを訪問します。二人の天才、生涯ただ一度の出会いでした。さらに記事に有る通り、昭和4年(1929)の黄と賢治の会談。
そう考えると黄はいろいろなところでのキーパーソンですね。昨日触れた画家の柳敬助同様、もっともっと知られていていい存在と思われます。
最後の黄の言葉「自分の存在自体が詩でありたい」は、賢治、心平、そして光太郎にも共通する考えだったようにも思えますね。
【折々のことば・光太郎】
御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中でよみました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持がよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感嘆には十二分に共鳴を感じます。まだきつと読みかへすでせう。これは記録としても貴重な文献です。
昭和23年(1948)12月10日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳
『絶後の記録』は、賢治研究家としても有名な小倉が自身の広島での被爆体験を綴ったルポです。翌年には海外輸出版が刊行され、そちらには光太郎が序文を寄せました。現在も流通している中公文庫版にはこれが転用されています。原爆の惨状が一般にはあまり知られていなかったこの時期、光太郎は書かれている内容に瞠目したようです。
また、改めてこの愚かな戦争に加担していたことへの自己嫌悪をももたらしたのではないかとも考えられます。
昨日は広島、明後日は長崎の原爆の日、来週には終戦の日。いろいろ考えさせられます。