先月末の『日本経済新聞』さんから、千葉県君津市文化財審議委員・渡邉茂雄氏の玉稿。光太郎にも随所で触れられている氏の御著書『不運の画家―柳敬助の評伝 黎明期に生きた一人の画家の生涯』に関して。

失われた肖像画を求めて 渋沢栄一ら描くも早世、作品は焼失 悲運の画家の功績語り継ぐ 渡辺茂男

 新1万円札に描かれた渋沢栄一と出くわした方も多いだろう。一方で失われてしまい、もう見られない渋沢の肖像画がある。描いたのは千葉県君津市出身の画家、柳敬助(1881~1923年)。熊谷守一や彫刻家・詩人の高村光太郎らと切磋琢磨(せっさたくま)し肖像画の第一人者となったが、42歳で早世。4カ月後の追悼展が関東大震災に遭い、代表作の多くが焼失した。
 23年9月1日は、友人らが日本橋三越で開く追悼展初日だった。柳の作品は約40点。渋沢の肖像などに加え、東京美術学校(現東京芸術大)時代に同居した熊谷の剣道着姿の絵もあった。高村や、同じく同居人だった画家の和田三造、辻永らも作品を寄せた。地震直後に作品は無事で、柳の妻・八重は墓碑銘のみ持ち帰った。ところが夜には火の手が回ってしまう。
 多くの作品が焼失したからこそ、画業を語り継がなければ――。柳と同じ君津生まれで小学校の後輩でもある私は、県立高校の社会科教諭をしながら市史編さんに携わり柳を知った。十数年前に退職した頃から本格的に資料を集めたり、絵が見つかったと聞けば調査に出向いたりし始めた。
 柳の生涯を彩ったのは、そうそうたる人々との交友だ。03年、指導者の黒田清輝の反対を押し切り美校を中退、渡米した。ニューヨークで師事したのは、パリで印象派を学んだロバート・ヘンライだ。「美術作品の価値はひとえに、目の前のものを見る画家の能力にかかっている」。残された柳の作品を見ると、ヘンライの教えを終生大事にしていたと感じる。
 現地で友となったのが彫刻家の荻原守衛(碌山(ろくざん))と高村だ。パリ、ロンドンを経て09年に帰国した柳は碌山の助けで東京・新宿のパン店、中村屋(現新宿中村屋)裏にアトリエを開くことになる。碌山は創業者の相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻と同郷で、店近くにアトリエを構え親密な交際を続けていた。
 だが柳のアトリエ完成とほぼ時を同じくして碌山は死去する。完成を祝おうと柳が君津から持ってきた桜が供花となったという。碌山の故郷にある碌山美術館(長野県安曇野市)と中村屋サロン美術館(東京・新宿)に柳の絵がまとまって残るのは、この友情のためだ。
 高村は生涯の友だった。11年、柳は橋本八重と結婚し、その後アトリエも雑司が谷に移す。肖像画家としての充実期が訪れていた。面白くないのが高村だ。精神不安定も重なり「友の妻」という詩で「君の妻を思ふたびに、余の心は忍びがたき嫉妬の為に顫(ふる)へわななく」と、所帯じみた柳を激しい言葉で批判した。
 しかし高村に「智恵子抄」で有名な妻となる長沼智恵子を紹介したのも柳だった。日本女子大学校(現日本女子大)で八重の後輩だった人だ。同校とのつながりは深かったようで、渋沢を描いたのも彼が3代目校長を務めたためだと思われる。
 高村は柳の作品に辛辣な批評を寄せるなど、新たな芸術を目指す同志への愛が強烈だった。かたや柳にはにじみ出すような優しさがあり、同じ田舎の者として共感する。熊谷がスランプに陥った際、柳は交友のある作家・志賀直哉が持つ赤城山の別荘に誘い、共に出掛けた。ここで熊谷が描いた作品「赤城の雪」は、彼の画風変化のきっかけだったとも評される。
 この4月、私は柳の評伝「不運の画家」(東京図書出版)を自費出版した。柳にはキリスト教思想家の新井奥邃(おうすい)や宗教家の西田天香(てんこう)らとの縁もあり、詳述している。不運だったが才能と人に恵まれ、幸せな生涯だっただろうと思う。 (わたなべ・しげお=元高校教諭)
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関東大震災で代表作の多くが焼失し、渋沢の肖像画もそこに含まれていました。焼失した作品でも写真が残っているものは『不運の画家―柳敬助の評伝 黎明期に生きた一人の画家の生涯』に画像が掲載されていましたが、渋沢像は写真も残っていないようです。残念ですね。

氏の地元・千葉県君津市さんの『広報きみつ』7月号に、以下の記事も載りました。
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柳敬助、もっともっと知られていていい画家と思います。記事にある安曇野の碌山美術館さん等にに足をお運びいただき、柳の画業に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

小生もいつか此の山中のどこかで一人で死んで発見されるでせう。部屋の中か野外か、その時次第です。死ねばあとはどうでもいいです。草木の肥料となるのが一番いいでせう。


昭和23年(1948)12月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎66歳

この予想は当たらず、7年余りのち、都内で亡くなることになります。

死ねばあとはどうでもいい」。本人はそれでいいのかも知れませんが、周りとしてはそうもいかないわけで……。逆に自分の生きた証しを必死で残そうとする(生前に自分の銅像を作らせるとか)よりは潔いのかも知れませんが……。

当方としては、光太郎本人に「死ねばあとはどうでもいい」と言われても、その鮮烈な生の軌跡の全体像を出来うる限り明らかにしていく作業は止められません(笑)。