昭和6年(1931)8月から9月にかけ、光太郎が新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために三陸海岸一帯を船で訪れたことを記念して行われている「女川光太郎祭」。昨年、コロナ禍明けで4年ぶりに通常開催され、今年も行われます。
詳しい文書等来ていないのですが、ほぼほぼ例年通りという連絡が入っておりまして、概ね下記のような流れでしょう。多少の順番の変更等はあるかも知れません。
10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
14:00~ 式典等
黙祷
第33回記念講演 「智恵子、その生涯」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
ご挨拶 女川光太郎の会
献花の模様動画投影
光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
祝辞
アトラクション演奏
18:00頃~
懇親会
午前中には、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧された光太郎文学碑(津波でなくなった貝(佐々木)廣氏が平成のはじめに建立に奔走)への献花。おそらく当方も関係者代表の一人としてでやらせていただきます。午後の式典の中でその模様の動画を投影するはずです。
震災前は式典が碑の前で行われており碑に直接献花、震災後しばらくはかつての健在だった頃の碑の写真に会場内で献花していましたが、昨年から上記のような流れになりました。
式典では、亡き北川太一先生のあとを受けまして、当方、毎年記念講演をさせていただいております。昨年までは光太郎の生涯を時期に分けて紹介して参りました。智恵子の生き様についても聴いてみたいという要望が昨年寄せられ、今年は「智恵子、その生涯」と題してやらせていただきます。
その後、町内外の方々による光太郎詩文の朗読。おそらくギタリスト・宮川菊佳氏の伴奏に乗せて行われます。
昨年の模様。
さらに宮川氏、それからオペラ歌手の本宮寛子氏のアトラクション的演奏。本宮氏は平成3年(1991)、女川町で「オペラ智恵子抄」(山本鉱太郎氏脚本、仙道作三氏作曲)が上演された際に智恵子役を演じられ、それ以来女川町に通い続けていらっしゃいます。
終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、当方としては今から楽しみです。
ご都合のつく方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
小生も仕事は七十歳からと信念致しまして、目下心身の涵養につとめて居ります。
「仕事」は彫刻。花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしの中で、発表する作品としての彫刻制作は完全に封印したことが語られています。少し前までは今年こそ少しずつやります、的な感じだったのですが。
期 日 : 2024年8月9日(金)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
式典等 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
式典等 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料
詳しい文書等来ていないのですが、ほぼほぼ例年通りという連絡が入っておりまして、概ね下記のような流れでしょう。多少の順番の変更等はあるかも知れません。
10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
14:00~ 式典等
黙祷
第33回記念講演 「智恵子、その生涯」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
ご挨拶 女川光太郎の会
献花の模様動画投影
光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
祝辞
アトラクション演奏
18:00頃~
懇親会
午前中には、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧された光太郎文学碑(津波でなくなった貝(佐々木)廣氏が平成のはじめに建立に奔走)への献花。おそらく当方も関係者代表の一人としてでやらせていただきます。午後の式典の中でその模様の動画を投影するはずです。
震災前は式典が碑の前で行われており碑に直接献花、震災後しばらくはかつての健在だった頃の碑の写真に会場内で献花していましたが、昨年から上記のような流れになりました。
式典では、亡き北川太一先生のあとを受けまして、当方、毎年記念講演をさせていただいております。昨年までは光太郎の生涯を時期に分けて紹介して参りました。智恵子の生き様についても聴いてみたいという要望が昨年寄せられ、今年は「智恵子、その生涯」と題してやらせていただきます。
その後、町内外の方々による光太郎詩文の朗読。おそらくギタリスト・宮川菊佳氏の伴奏に乗せて行われます。
昨年の模様。
さらに宮川氏、それからオペラ歌手の本宮寛子氏のアトラクション的演奏。本宮氏は平成3年(1991)、女川町で「オペラ智恵子抄」(山本鉱太郎氏脚本、仙道作三氏作曲)が上演された際に智恵子役を演じられ、それ以来女川町に通い続けていらっしゃいます。
終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、当方としては今から楽しみです。
ご都合のつく方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
小生も仕事は七十歳からと信念致しまして、目下心身の涵養につとめて居ります。
昭和23年(1948)10月21日 宮崎仁十郎宛書簡より光太郎66歳
「仕事」は彫刻。花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしの中で、発表する作品としての彫刻制作は完全に封印したことが語られています。少し前までは今年こそ少しずつやります、的な感じだったのですが。