3件ほど。

まずは『日本経済新聞』さんで先週の記事です。長いので抜粋で。

〈詩人の肖像〉(7)中村稔 曇りなく歴史を見つめる

弁護士でもある中村稔が、学生時代に詩を発表003してから、すでに70年以上がたった。自然の表情に自らの心情を投影させる端正な叙情詩で、独自の世界を築いた詩人は、近代の詩人や作家の評論にも、多くの筆を割いてきた。92歳になった今も、執筆意欲に衰えはない。

この夏には、3冊の新刊を出した。評論『高村光太郎の戦後』、エッセー『回想の伊達得夫』、それに詩集『むすび・言葉について 30章』(いずれも青土社)である。
「弁護士の仕事の負担が減ってきたので、執筆に費やす時間がとれるようになりました」と言うが、気力がなければ、到底続けられる仕事ではない。今回の高村光太郎論は原稿用紙にして860枚。昨年刊行した大著『高村光太郎論』(青土社)に続く光太郎論で、前著にはなかった見方を打ち出している。
(略)
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「高村光太郎は、萩原朔太郎とともに現代詩の父であり、母でもある詩人。どうしても改めて論じ直しておきたかった」。その思い入れは深い。中学時代に初めて光太郎の詩に触れ、1941年に龍星閣から出た詩集『智恵子抄』は、新刊で読み、感銘を受けた。戦後は、弁護士としても思わぬ形で光太郎に関わった。『智恵子抄』の著作権登録をめぐって争われたいわゆる『智恵子抄』裁判に、73年以来20年間携わった。編集著作権があると主張した龍星閣主人に対し、
光太郎自身が編集したとする高村家側の代理人弁護士として、勝訴の判決をもたらした。「亡き光太郎のため」を思って奮闘した20年だった。
2冊の評論では、光太郎の詩を丁寧に読み解きながら、その生涯を厳しく見つめている。たとえば、『智恵子抄』は精神を病み、肺結核で亡くなった智恵子への純粋な愛の詩集として長く読み継がれてきたが、前著で中村は、夫婦生活でも芸術第一に考え、智恵子へのいたわりが足りない光太郎の姿勢を問題にした。真の画家をめざした智恵子が精神を病んだのは、光太郎のそんな態度にも原因があったと見る。さらに戦時中に書いた光太郎の戦意高揚の詩編には、「高村光太郎の罪責は重い」と仮借無く批判している。
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一方、新刊の『高村光太郎の戦後』で、変わった点もある。光太郎が戦後書いた詩集『典型』の詩の評価について、これまでの考えを改めたのである。愚かな自分の半生を振り返る「暗愚小伝」を含むこの詩集について、前著までは「弁解の詩ばかりではないか」と厳しい見方を示していたが、後者では、弁解は多いものの「心をうつ作品がいくつか確実に存在する」と変わった。「『典型』の読み方が浅かったんです。1年ほどで考えを変えるのは、恥ずかしいけれど、書かなくてはならないと思った」と話す。92歳にしてこれまで自分の考えが至らなかったことを率直に認めている。
(略)

同紙編集委員の宮川匡司氏のご執筆。調べてみましたところ、宮川氏、平成28年(2016)にも同紙で中村氏の近況レポート的な記事を書かれていました。そのアンサー報告的な感じです。

中村氏が昨年刊行された『高村光太郎論』、今年5月に出された『高村光太郎の戦後』について述べられています。


続いて昨日の『毎日新聞』さん。こちらも長いので抜粋で。

わくわく山歩き 徳本峠 いにしえの道たどる 柏澄子

 徳本峠と書いて、「とくごうとうげ」と読む。日本有数の山001岳観光地となった風光明媚(めいび)な上高地にある峠。上高地へ向かう自動車道は、上高地を流れる梓川沿いに走る国道158号。それがやがて、上高地公園線へと続いていく。1933年に開通した。現在は、通年マイカー規制をしているので、その区間は、特定のバスやタクシーなどに乗車しアプローチするが、この道が開通する以前は、徳本峠を越えて、上高地へ入っていた。
(略)
 明治に入ると、山に登る者たちも、徳本峠を越えるようになった。なかには、イギリスの宣教師であり幾つもの日本の山を登ったウォルター・ウェストンや、志賀重昂、高村光太郎・智恵子夫妻、芥川龍之介といった、上高地を愛した文豪たちもいた。そして、大正12
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(1923)年、徳本峠小屋が登山者に向けた山小屋として営業を始めた。 上高地や槍・穂高連峰が、登山者でにぎわい始めたころである。
(略)
 明神岳のたもとにある
明神池と穂高神社奥宮、誰よりも上高地を知り尽くした猟師であり山案内人だった嘉門次の小屋。上高地の歴史と自然を知るビジターセンター、文豪たちが愛した上高地温泉やウェストンのレリーフなど、知的好奇心も満足させてくれる。

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山岳ライターの柏澄子氏による上高地の紹介です。大正2年(1913)、光太郎智恵子がこの地で婚約を果たしました。

当方、残念ながら未踏の地です(そのくせ山岳雑誌『岳人』さんに
高村光太郎と智恵子の上高地」という記事を書かせていただきました(笑))。河童橋やらのバスで行けるエリアであればあまり苦もなく行けるのでしょうが、光太郎智恵子の歩いた徳本峠のクラシックルートとなると、不案内な身ではなかなか足が向きません。いずれは、と思っております。


最後に『宮崎日日新聞』さん。少し前ですが、先月23日の「ことば巡礼」というコラムです。ご執筆は
文芸評論家・細谷正充氏。

「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」 「道程」

 高村光太郎(1883〜1956年)には、有名な詩が二つある。一つは、「智恵子は東京に空が無いといふ」で始まる「あどけない話」。そしてもう一つが、標記の文章で始まる「道程」だ。
 この詩は「ああ、自然よ父よ」と続き、自然を父親になぞらえているように読める。周知の事実だが、光太郎の父は、上野公園の西郷隆盛像の制作者として知られる彫刻家の高村光雲だ。自身も彫刻家であった光太郎にとって、父が大きな存在であったことは、容易に察せられる。そのような思いが、この詩には込められている。
 というのは私の勝手な解釈だが、それほど外れてはいないと思う。高名な父を持った息子の人生には、それゆえに厳しいこと、つらいことがあったはずだ。だが、誰だって生きることは厳しくつらい。標記の文章が真理だからだ。
 この地球に生きるすべての人間が、明日、自分がどうなるかを知らずにいる。未来は常に不定形だ。最期の瞬間に、人生という道程を振り返り、歩いてきた道を確認した時、初めて自分の選択が正しかったか、間違っていたのか判明する。そのことをみんな分かっているから、この詩は多くの人の心を、引きつけるのだろう。


講演等で「道程」に触れる際にはいつも申し上げていますが、この詩は大正3年(1914)の作、つまり100年以上前の作品です。しかし、現代に生きる我々の心の琴線にしっかり響いてくるものです。未来永劫語り継がれてほしい作品です。


【折々のことば・光太郎】

行く末とほき若人(わかひと)の ここにもひとりうらぶれて 室(へや)に散り布(し)く鑿の屑 噛みては苦(にが)き世を嘆くかな

詩「なやみ(若き彫刻家のうたへる)」より
 明治35年(1902) 光太郎20歳

現在のところ確認できている最も早い詩作品です。文語定型の習作的なもので、いい出来とは言えませんが、彫刻制作を題材にしている点、「道程」にも謳われている父・光雲との彫刻観の相違から来る齟齬などが背景にあることなどが注目に値します。