7月26日(金)、『毎日新聞』さんの神奈川版から。

かながわの書 名碑探訪/17 茅ケ崎・平塚らいてう記念碑 書き出しに意志の強さ /神奈川

 「元始、女性は太陽であった」。女性文芸誌「青鞜」の創刊号、平塚らいてうの言葉である。表紙の装丁は長沼智恵子(のちの高村光太郎の妻)が担当し、与謝野晶子も「山の動く日来る」と賛辞の詩を贈った。
 らいてうは女性保護論争に加わり、市川房枝らとともに新婦人協会を結成。婦人参政権運動を起こした。現代では到底考えられないが、当時女性に参政権がなかったのである。「元始、女性は………」はセンセーショナルな言葉として社会現象となった。1911(明治44)年秋のことであった。
 JR茅ケ崎駅の南口に降り、海に向かって徒歩約8分で「高砂緑地」の看板に出合う。ここは実業家・原安三郎の別荘の土地だったが、今は「松籟(しょうらい)庵」として公開している。地元では憩いの場として夙(つと)に有名である。庭園に入ると高さ160センチの堂々とした碑がある。あまたの松に囲まれ、潮風に満ちた静かな庭だ。
 碑文に目を遣(や)ると、たっぷりと墨を含ませた筆で「元始」と書き進めている。 しっかりと筆を立て、紙に筆圧をかけていることが伺える。書は筆順を追うことができるため、時間推移と共に鑑賞できる数少ない芸術とも言われている。
 本文を3行に分け、行間を広くとり、漢字を大きく仮名を小さめに書き、文字の大小変化をつけている。時間をかけて鑑賞すると、らいてうの息づかいを感じとることができる。また「性・陽・正」の漢字を草書で表現し運筆リズムを作っている。当時の識者はよく草書を使う。筆で手紙を書く時に、早書きの草書が手に馴染んでいたのだろう。小学校の漢字レベルの草書は誰もが読め、常識の範囲だったのだ。
  おそらく当時の女性の筆触としては仮名文字の細線が主流だったはずだ。しかし、らいてうの運筆は全く異なり、書き出しは中国唐時代の顔真卿(がんしんけい)のような肉太のタッチである。明治の女性の意志の強さがそうさせたのだろうか。落款は「らいてう」と「明(はる)」の印を添えている。「明」は本名である。また、「らいてう」の名は雷鳥に由来する。
 「青鞜」はわずか5年間の活動で終焉(しゅうえん)を迎えた。爾来(じらい)113年の歳月が流れたが、その精神は脈々と今日まで受け継がれて来た。先の東京都知事選においても女性の知事が3期目に入るという。まさにらいてうの先見の明の証(あかし)と言えるだろう。 
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記事を書かれたのは県立高校の書道の先生だそうで、なるほど、書体や筆法などにつき的確な評が為されています。

この碑、一度拝見に伺いました。意外と新しく、平成10年(1998)の建立でした。刻まれた文字が書かれたのがいつかまでは分かりませんでしたが。すぐそばには光太郎と縁のあった八木重吉の詩碑も建てられていました。

なぜ茅ヶ崎にらいてうの碑が、というと、らいてうの夫・奥村博史が結核の治療のため、この地にあったサナトリウム・南湖院へ大正4年(1915)に入院、そのためらいてうも翌年には近くに借間を借り、奥村退院後も大正6年(1917)までこの地に住んでいたためでしょう。南湖院の建物の一部は国の登録有形文化財として、元の敷地(高砂緑地から数百㍍)の一角に残されています。八木も昭和の初めに南湖院に入院していましたし、遠く明治時代には国木田独歩も。

ぜひ足をお運びいただき、先人たちの息吹に触れてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

これから又出直して新らしい世代の為に新らしい熱情を以て尽すやうに望みます。いつでも青年を相手にしてゐるのは何よりです。その上農は国民生活の根本ですから、まことにやり甲斐のある仕事です。


昭和23年(1948)10月14日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎66歳

孟彦は光太郎実弟。藤岡家に養子に行き、植物学者となりました。戦前から兵庫県農業試験場に勤務していましたが、この年、茨城県の鯉淵学園に赴任。現在の鯉淵学園農業栄養専門学校です。