能楽師の山本順之氏が亡くなりました。
共同通信さん配信記事。
その後、きちんと演じられることは多くなく、ダイジェスト版の舞囃子、それから謡だけを取り出しての連吟や独吟で取り上げられるケースがほとんどでした。
山本氏、「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」の際には、朝日さんの記事に有る通り地謡を率いる地頭として幽玄な世界を存分に、重厚に表されていました。
また、昨年は横浜能楽堂さんで上演された企画公演「能役者 鵜澤久」の際にも、地頭として「智恵子抄」。こちらは舞囃子でした。残念ながらチケットが取れず見逃しましたが。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
「智恵子抄」を舞踊にするといふ事、あなたなら智恵子を下等にしてしまふ事はないと信じますから快く承諾いたしますが、藤間節子さんがどんな表現を創造するか推察もつきません。
先述の「新作能 智恵子抄」は光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)。この前後、新珠三千代さん主演のテレビドラマ、原節子さん主演の映画、初代水谷八重子さん主演の舞台と、「智恵子抄」の二次創作が相次ぎました。智恵子を演じられたお三方と、「新作能 智恵子抄」をプロデュースした武智鉄二による座談会の模様が、昭和32年(1957)6月1日発行の『婦人公論』第42巻第6号に掲載されました。
こうした二次創作の嚆矢が、舞踊家・藤間節子(のち黛節子)による舞踊「智恵子抄」公演。昭和24年(1949)に帝国劇場で初演、その後、繰り返し上演されました。
共同通信さん配信記事。
山本順之さん死去 能楽観世流シテ方
山本 順之さん(やまもと・のぶゆき=能楽観世流シテ方、重要無形文化財保持者〈総合認定〉)8日午後10時24分、肝細胞がんのため自宅で死去、85歳。大阪市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は長男基之(もとゆき)さん。
「姨捨」などの古典作品をはじめ、数多くの舞台に出演。75年度芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。
『朝日新聞』さん。
当方、令和3年(2021)、南青山の銕仙会能楽研修所さんで上演された「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見・拝聴して参りました。
謡がメインの公演でしたので、山本氏、仕舞で「井筒」、あとは連吟と独吟でした。で、連吟が「智恵子抄」。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞で演じられた「新作能 智恵子抄」を元にしたものでした。下記は初演時の雑誌『サングラフ』記事です。『朝日新聞』さん。
山本順之さん死去
山本順之さん(やまもと・のぶゆき=能楽師シテ方観世流)8日、肝細胞がんで死去、85歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男基之さん。
大阪府出身。75年度の芸術選奨文部大臣新人賞を受けた。重要無形文化財保持者(総合認定)で、地謡を率いる地頭としても活躍した。
当方、令和3年(2021)、南青山の銕仙会能楽研修所さんで上演された「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見・拝聴して参りました。
その後、きちんと演じられることは多くなく、ダイジェスト版の舞囃子、それから謡だけを取り出しての連吟や独吟で取り上げられるケースがほとんどでした。
山本氏、「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」の際には、朝日さんの記事に有る通り地謡を率いる地頭として幽玄な世界を存分に、重厚に表されていました。
また、昨年は横浜能楽堂さんで上演された企画公演「能役者 鵜澤久」の際にも、地頭として「智恵子抄」。こちらは舞囃子でした。残念ながらチケットが取れず見逃しましたが。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
「智恵子抄」を舞踊にするといふ事、あなたなら智恵子を下等にしてしまふ事はないと信じますから快く承諾いたしますが、藤間節子さんがどんな表現を創造するか推察もつきません。
昭和23年(1948)7月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳
先述の「新作能 智恵子抄」は光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)。この前後、新珠三千代さん主演のテレビドラマ、原節子さん主演の映画、初代水谷八重子さん主演の舞台と、「智恵子抄」の二次創作が相次ぎました。智恵子を演じられたお三方と、「新作能 智恵子抄」をプロデュースした武智鉄二による座談会の模様が、昭和32年(1957)6月1日発行の『婦人公論』第42巻第6号に掲載されました。
こうした二次創作の嚆矢が、舞踊家・藤間節子(のち黛節子)による舞踊「智恵子抄」公演。昭和24年(1949)に帝国劇場で初演、その後、繰り返し上演されました。
藤間は戦時中から光太郎と交流がありました。その回想から。
ピンクのカーネーションの大きな花束を抱いて高村先生の林町のお宅をお訪ねしたのは十七年六月十五日の午後、「これ奥様にさし上げて下さい」、とさし出した私の突飛な言葉を「これは智恵子の好きだつた花瓶です」と、黒つぽい長い花瓶にさして大きなお机の上におゝきになつた先生。私が夢中になつて申上げる「智恵子抄」のことを一つ一つ首肯いてうけて下さる。そして最後に奥様の作られた切り紙細工を見せて下さつた。
(略)
空襲中も「智恵子抄」だけは抱いて防空壕にのがれ、疎開先に背負つてゆき、そしていつか口の朗読が踊りの表現へと形作られてゆきました。そのことを何年ぶりかで岩手の山中へお便りしたところ先生からはすぐ御返事が来ました。「貴女なら、智恵子を下等にしてしまはないから快く承諾いたします」と。
その時の私は、その葉書をもつて広くもない家中を飛び廻ってしまいました。
ピンクのカーネーションの大きな花束を抱いて高村先生の林町のお宅をお訪ねしたのは十七年六月十五日の午後、「これ奥様にさし上げて下さい」、とさし出した私の突飛な言葉を「これは智恵子の好きだつた花瓶です」と、黒つぽい長い花瓶にさして大きなお机の上におゝきになつた先生。私が夢中になつて申上げる「智恵子抄」のことを一つ一つ首肯いてうけて下さる。そして最後に奥様の作られた切り紙細工を見せて下さつた。
(略)
空襲中も「智恵子抄」だけは抱いて防空壕にのがれ、疎開先に背負つてゆき、そしていつか口の朗読が踊りの表現へと形作られてゆきました。そのことを何年ぶりかで岩手の山中へお便りしたところ先生からはすぐ御返事が来ました。「貴女なら、智恵子を下等にしてしまはないから快く承諾いたします」と。
その時の私は、その葉書をもつて広くもない家中を飛び廻ってしまいました。