7月7日(日)、『読売新聞』さんの日曜版に光太郎の父・光雲の名が出ました。「旅を旅して」という、紀行文や小説、映画、詩歌などに残された「旅の記憶」を記者がたどる連載で、光雲が主任となって、東京美術学校総出で制作された皇居前広場の「楠木正成像」がらみです。
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像に使われた銅は、愛媛県の別子銅山で産出されたもの。そもそも像は銅山の開坑200周年記念という意味合いもあって、住友家から寄贈されました。記事はその別子銅山の「今」がレポートされていました。

旅を旅して 森になった街…別子(べっし)銅山(愛媛県新居浜市)  まるで考古学者のように、産業遺跡を発掘したい。――――荒俣宏「黄金伝説」(1990年) 

001 森になった街――との呼び名通りだった。赤レンガの塀とか、学校跡の石組みとか、静寂の中、むせかえる山の緑のあちこちに、先人の生活の跡が見て取れた。
 江戸中期から1973年の閉山まで65万トンもの銅を産出した別子銅山は、往時の活況を伝える産業遺産が南北約20キロにわたって点在する。標高が1000メートルを超える旧別子のエリアには明治後期、鉱山労働者や家族ら、1万人以上が暮らしたのだという。
 その事跡を確かめようと、作家の荒俣宏さんが山に分け入ったのは春、4月だった。温暖な四国だ。麓で満開の桜を見、軽装で赴いたところ、雪と氷が覆う「厳冬ムード」「冷寒地獄の眺め」で「滑落して死ぬのかと覚悟したりもした」と苦行を 綴つづ っている。
 観光の拠点、マイントピア別子の 永易ながやす 舞さん(26)によると冬の間、銅山関連のツアーは休止にするらしい。今は山歩きには絶好の季節で、頂の 銅山越どうざんごえ (1294メートル)まで、2時間弱の散策を楽しんだ。
 険しい斜面の所々、わずかな平地が石垣で補強され、急階段が据えてある。案内板にかつて、そこにあった建物が写真と共に紹介してあった。
 寺、醸造所、測候所……。巨大な倉庫は明治の頃、劇場にも転用され、上方の名優が歌舞伎を上演した、との説明書きがあった。1000人超の収容規模だったとか。休息の日、山に響いたであろう、拍手や歓声を想像した。
 ゴール近く、歓喜坑は最初の坑口で、1691年にここから採掘が始まった。銅山を経営し、発展の礎とした住友グループの聖地で、新入社員や幹部社員が研修で訪れる。「感激する新人さんも多い」とガイドの石川潔さん(73)が教えてくれた。
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 銅山越の北、 東平とうなる エリアにバスで向かう途中、急斜面にへばりつく社宅跡が見えた。その数2百数十、まさに天空都市の様相である。本当に人が?と、にわかに信じがたい傾斜だ。けれど、近くの歴史資料館には急坂で遊ぶ子らの写真が確かに掲げてあった。
 永易さんは高校時代、東平エリアの元住民から聞き取りをした経験がある。「プールで良いタイムを出したとか、大切な思い出を伺いました」
 実体験を話せる人の多くが鬼籍に入った。この国の近代化を支えた名も無き人たちの記憶、記録を、いかに次世代へと受け渡していくか。思いを巡らす日々だという。
◇ 荒俣宏 (あらまた・ひろし)
 1947年、東京生まれ。約10年間のサラリーマン生活の後、翻訳や事典編集に携わる。87年、小説「帝都物語」で日本SF大賞。94年にはライフワークの「世界大博物図鑑」(全5巻、別巻2)が完結した。「近代成金たちの夢の跡」探訪記、との副題を掲げた表題作は、明治維新以降、日本の近代化に貢献した地場産業の現場を巡り、サトウキビ王や石炭王、鉄道王ら、ずぬけた頭脳、行動力で時代を先導した「飛びっきりのヒーロー」の生涯を紹介する。逸話、雑学満載、筆者の面目躍如の1冊。

銅山近代化 先人の足跡
 明治初めまで製錬した 粗銅あらどう は人が背負って麓へ運んだ。重さは男が45キロ、女は30キロ、命の危険もある険しい山道を最盛期は数百人が往復したという。
 牛車道の整備を経て、1893年(明治26年)には標高1100メートルの地点から専用鉄道が走った、というから驚く。
 その第1号、ドイツ製蒸気機関車は、新居浜市街にある別子銅山記念館で見られる。
 館内には坑道の模型も展示してあり、総延長700キロ、高低差2300メートルという規模に2度驚く。「 螺灯らとう 」は鯨油を浸した綿を、サザエの殻に詰めたランプで、明治半ばまで坑道ではこの灯を頼りに作業していた。
 「先人の苦労のほどを想像してもらえたら」と館長の神野和彦さん(62)は話す。
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 新居浜への旅で荒俣宏さんは銅山や街の発展に尽くした2人の偉人の足跡を追った。
 広瀬 宰平さいへい (1828~1914年)は住友初代総理事で銅山の近代化策を作った。
 牛車道や鉄道のほか、製錬所の整備やダイナマイトの本格使用等々。荒俣さんが注目したのが労働者への目配りで例えば旧別子山中で跡を見た醸造所は、うまい酒やみそ、しょうゆを提供し、食生活を充実させる目的で造られた。
 人徳だろう。その名を冠した広瀬公園には市が保全した旧宅(国重要文化財・名勝)や記念館があり、小学生らが授業で功績を学ぶそうだ。
 同じく鉱山の最高責任者を務めた鷲尾 勘解治かげじ (1881~1981年)は昭和初めに早くも閉山後を見据え、幹線道路や港、臨海部の埋め立てなどの案を練り、工業都市の礎を築いた。これらの多くが今も機能する一方、海に近い大規模社宅は防災上の問題や再開発でほぼ姿を消した。
 取り壊し前、市が調査し、一部で保存・整備を進める。市別子銅山文化遺産課の 秦しん野の親ちか史し さん(63)は「各所でぎりぎり残った産業遺産に、どう歴史的、文化的な価値を見いだすか」自問を続けている。
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●ルート 羽田空港から松山空港まで約1時間30分。連絡バスでJR松山駅まで15分。松山駅から新居浜駅まで特急で約1時間10分。
●問い合わせ マイントピア別子=(電)0897・43・1801、別子銅山記念館=(電)0897・41・2200、新居浜市観光物産協会=(電)0897・32・4028、広瀬歴史記念館=(電)0897・40・6333
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[味]もちもち生地のカレーパン
 伊予路の銘菓、別子 飴あめ は明治元年以来の変わらぬ味で、根強い人気を誇る。「地元産品を使った新しい土産を」と、商品開発に余念がない別子飴本舗((電)0897・45・1080)7代目、越智秀司さん(71)が取り組んだのがカレーパンだ。別商品の製造用に導入した大型フライヤーを活用するため、元パン職人の工場長と知恵を出し合ったのがきっかけ。うどんだしを混ぜたルーや、愛媛県産のヤマノイモ「やまじ丸」を練り込んだもちもち食感の生地が特徴で、2020年の発売以来、コンテストで金賞に輝くなど人気を博している。半熟卵(378円)=写真右=や甘とろ豚(同)など、店頭で揚げたてを提供するほか、冷凍商品の通販も。今年は神奈川県横須賀市の商工会議所の協力を得て開発した「よこすか海軍カレー」(同)が加わった。
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ひとこと…読み応えある紀行
 皇居の外苑、勇壮な楠木正成像は別子銅山開坑200年を記念して、住友家が献納した――。荒俣さんは新居浜の歴史を意外なエピソードからひもとく。高村光雲が頭の造形を手掛け、内部までみっちり銅が詰まった逸品は、なぜ、皇居前への設置が許されたのか。体当たりで謎解きに挑む紀行は実に読み応えがある。

四国には光太郎や光雲らの足跡も直接は残って居らず、ほとんど行く機会もありませんで、別子銅山がこういう現状だというのは存じませんでした。てっきり現在も採掘が続いているものとばかり思い込んでいました。

ちなみに記事の後半で触れられている広瀬宰平、楠木正成像の制作と並行して、自身の像も光雲に制作を依頼しました。

明治34年(1901)には銅山に近い当時の中萩村に除幕設置されました(左下)が、戦時中の昭和19年(1944)には例によって金属供出のため失われました。しかし、東京藝術大学さんに奇跡的に木彫原型(中央下)が保存されており、それをもとに平成15年(2003)、元の場所、現在の広瀬公園に二代目の像(右下)が据えられました。
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一度見に行ってみたいのですが、なかなか果たせないでいます。

いずれ銅山記念館等と併せて、と思っております。また、荒俣宏氏の『黄金伝説』も読んでみようと思いました。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

転地のよし、猫実ならば大にいいだらうと想像します。猫実といふところは小生の祖父の釣によく行つたところです。それで名をおぼえてゐました。


昭和23年(1948)8月12日 草野心平宛書簡より 光太郎66歳

「猫実(ねこざね)」は、現在の千葉県浦安市。江戸川河口に近く、少し東に宮内庁の鴨場があったりする海っぺたです。

当会の祖・心平、このころ胸を患い、静養のため彼の地に独居。翌年には石神井に移り、家族を呼び寄せます。一年程でしたが同じ千葉県民だったと思うとさらに親近感が涌きます(笑)。