昨日は東京都中野区に行っておりました。光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になるの中西利雄アトリエの保存運動「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の4回目の会合でして。
少し早めに行き、中野駅南口近く、旧桃園町を歩きました。最晩年の昭和29年(1954)以降、外出もままならなくなった光太郎が貸しアトリエの大家さんだった中西利雄夫人に託した膨大な買い物などを頼むメモが残されていて、その中に下記の地図が含まれています。通常の地図と同じく北が上、右上の方が中野駅方面で、左下の「中西」と書いてあるところがアトリエです。
現代の地図では下記の紫の枠内、左下の☆がアトリエです。
およそ70年経って、書かれている様々なお店がどうなっているのか、地図を片手に歩いてみました。先月、「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」を拝見した折にも歩きましたが、その際は光太郎の書いた地図については失念していました。
さて、まず地図右上の「薬局」。瀟洒な会計学院の建物になっていました。
昭和27年(1952)に中野に移ってから、常に健康を害していた光太郎。様々な薬品の購入を中西夫人に託しましたが、おそらくここで買われたものが多かったはず。
右上は光太郎の地図で「果物」と書かれているお店。こちらのみ、光太郎の地図と同じ業種で存続していました。ただし、建物は建て替わっています。
そのお隣は光太郎の地図では「魚ヤ」ですが、現在はリサイクル着物店。光太郎メモに最も頻出する「神田屋肉屋」と「八百屋」、さらには「スワン」(洋品店だったそうです)、「松屋酒屋」、「時計屋」はまったく痕跡がありません。普通の民家になっていたりでした。
やはり70年という時間の経過を感じざるを得ませんでした。
逆に、光太郎の書いた地図やメモには記載がありませんが、古いものも。
公民館的な。
それから、戦争遺跡と言えるでしょう。戦時中の昭和18年(1943)建立の石碑。
少し早めに行き、中野駅南口近く、旧桃園町を歩きました。最晩年の昭和29年(1954)以降、外出もままならなくなった光太郎が貸しアトリエの大家さんだった中西利雄夫人に託した膨大な買い物などを頼むメモが残されていて、その中に下記の地図が含まれています。通常の地図と同じく北が上、右上の方が中野駅方面で、左下の「中西」と書いてあるところがアトリエです。
現代の地図では下記の紫の枠内、左下の☆がアトリエです。
およそ70年経って、書かれている様々なお店がどうなっているのか、地図を片手に歩いてみました。先月、「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」を拝見した折にも歩きましたが、その際は光太郎の書いた地図については失念していました。
さて、まず地図右上の「薬局」。瀟洒な会計学院の建物になっていました。
昭和27年(1952)に中野に移ってから、常に健康を害していた光太郎。様々な薬品の購入を中西夫人に託しましたが、おそらくここで買われたものが多かったはず。
右上は光太郎の地図で「果物」と書かれているお店。こちらのみ、光太郎の地図と同じ業種で存続していました。ただし、建物は建て替わっています。
そのお隣は光太郎の地図では「魚ヤ」ですが、現在はリサイクル着物店。光太郎メモに最も頻出する「神田屋肉屋」と「八百屋」、さらには「スワン」(洋品店だったそうです)、「松屋酒屋」、「時計屋」はまったく痕跡がありません。普通の民家になっていたりでした。
やはり70年という時間の経過を感じざるを得ませんでした。
逆に、光太郎の書いた地図やメモには記載がありませんが、古いものも。
公民館的な。
それから、戦争遺跡と言えるでしょう。戦時中の昭和18年(1943)建立の石碑。
その後、中野駅北口に回り、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合会場のスマイル中野さんへ。
会のメンバーその他があちこちでお願いしている保存に賛同するという署名はおよそ1,200名分集まったそうです。海外からも届けられているとのことで、感謝に堪えません。
今後、アトリエの所有者である中西家の意向確認、それから関係団体との交渉など、まだまだ課題が山積の状況です。
署名につきましては、まだまだ受付中。このブログサイト内のこちらのリンク、それから下記画像等をご参照の上、ご協力いただければ幸いです。
また、当方、今後も様々な場所に出没し、行った先々で署名をお願いいたします。そうした際にも快くご協力いただければ幸いに存じます。
さらに、健全な意図の元に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」で活動してみたいという方もウェルカムです。曽我氏までご連絡下さい。
【折々のことば・光太郎】
盛岡に於ける美術工芸学校の創設発足は本年を記念する最も意義ふかき事業と存ぜられます、幸に貴下の如き適任者が当県に居られてその創業の際に之が鞅掌にあたられる事此上なきよろこびです。この有望な岩手の美術工芸をどこまでももり立て育て上げて下さい。岩手は確かに日本のホープです。
戦前から光太郎と交流のあった美術史家・森口は、この年開校した県立美術工芸学校の初代校長に就任しました。岩手で暮らし始めて丸三年近く経った光太郎、「岩手は確かに日本のホープです。」とまで書くようになりました。
さらに、健全な意図の元に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」で活動してみたいという方もウェルカムです。曽我氏までご連絡下さい。
【折々のことば・光太郎】
盛岡に於ける美術工芸学校の創設発足は本年を記念する最も意義ふかき事業と存ぜられます、幸に貴下の如き適任者が当県に居られてその創業の際に之が鞅掌にあたられる事此上なきよろこびです。この有望な岩手の美術工芸をどこまでももり立て育て上げて下さい。岩手は確かに日本のホープです。
昭和23年(1948)4月18日 森口多里宛書簡より 光太郎66歳
戦前から光太郎と交流のあった美術史家・森口は、この年開校した県立美術工芸学校の初代校長に就任しました。岩手で暮らし始めて丸三年近く経った光太郎、「岩手は確かに日本のホープです。」とまで書くようになりました。