一昨日の『福島民報』さん一面コラムです。
コロナ禍の頃は東京一極集中が見直され、リモートワークであれば地方でも、と、地方へのUターンやIターンが話題となりましたが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」でしょうか、またしても「転出超過」、光太郎が(智恵子が)謳った「ほんとの空」のある福島も例外ではないようで……。
残念なニュースが報じられて久しい。本県から首都圏などに出て行く若者が、入ってくる数を上回っている。いわゆる「転出超過」。女性は顕著で、全国上位のままだ。古里はそんなに魅力に乏しいのか▼首都圏在住の県内出身者(18~34歳)を対象に県が初めて実施した調査で、「福島県に戻る可能性がある」との回答が25%を占めた。4人に1人は多いか、少ないか。両論あろうが、都会へのあこがれと現実との落差に気付き、リセットを考える県人は確かにいるのだろう。高層ビルの乾いた林で思い探すは、懐かしい「ほんとの空」か▼若い世代よ、大いに語れ―。福島市は13日、初の「福島っ子ベース」を市内で開く。高校生から30歳未満が集う。進学、就職、結婚、子育てなどをテーマに、思いの丈を発する。寄せられた声は「市こども計画」に生かされる▼給食や医療費の無償化から、おむつの提供まで、自治体は懸命に「子育てファースト」施策を進める。最後のひと押しは、膝詰めで語り合える仲間がいるかどうかかもしれない。SNSファーストのお付き合いに疲れたならば、訛[なま]り懐かし古里へ。ほんとの空は翼を広げ、都会からの北帰行を誘っている。
コロナ禍の頃は東京一極集中が見直され、リモートワークであれば地方でも、と、地方へのUターンやIターンが話題となりましたが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」でしょうか、またしても「転出超過」、光太郎が(智恵子が)謳った「ほんとの空」のある福島も例外ではないようで……。
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ、
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
詩の執筆は昭和3年(1928)5月11日、翌月、尾崎喜八らと一緒に出していた雑誌『東方』に発表されました。この年、智恵子は43歳(数え年です。以下同じ)。故郷の空に思いを馳せる、というと、やはりある程度の年齢になってからが多いのでしょうか。
明治40年(1910)に日本女子大学校を卒業した後、実家の反対を押し切って福島には帰らず、油絵画家として成功することを夢見ていた20代の頃は、「ほんとの空」を懐かしむ余裕もなく、がむしゃらに突っ走っていたのかも知れません。
大正3年(1914)、29歳で光太郎と結婚し(結婚披露は行ったものの入籍しない事実婚でした)、画家として行き詰まりを感じるようになると、「私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。彼女はよく東京には空が無いといつて歎いた。」(光太郎「智恵子の半生」昭和15年=1940)。
しかし、恐慌のあおりや、父の死後、あとを継いだ弟の不行跡で実家の造り酒屋・長沼酒店はどんどん傾き、「あどけない話」が書かれた前日には、不動産登記簿によると長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けています。光太郎がこうした事情を知らなかったとは考えにくく、その苦悩を「あどけない話」で暗示しているのでしょう。ちなみに翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、家族は離散、智恵子は帰るべき故郷と「ほんとの空」を失います。
それが決定打となって、心の病がどんどん昂進していったのでしょう。誰の目にも智恵子の異状が明らかになったのは光太郎の三陸旅行中の昭和6年(1931)、智恵子46歳の時からと言われますが、夫妻と親しかった深尾須磨子の回想などによれば、それ以前のかなり早い段階から、智恵子には異様な行動やつじつまの合わない発言が見られていたそうです。
現代の人々にも、「ほんとの空」が失われないうちに、それぞれの「ほんとの空」のある場所へと「帰行」するのも一つの選択肢だよ、と言いたいところですね。
ちなみに最近、自宅兼事務所近くでこんな看板を見付けました。
以前に同様の画像が旧ツイッターにたびたび投稿されていて、「智恵子さん、東京にも空がありますよ」みたいなツイート。それを見て、自分でもこの手の看板を見付けたいものだと思い、主に都内に出た時に注意していたのですが、自分のテリトリーで見付けてしまいました(笑)。
自分もUターン組でして、都内や東京近郊に住んでいた頃には、あまり「空」を意識していませんでしたが、田舎に引っ込み、ある程度年齢を重ね、さらに智恵子の「ほんとの空」への思いなどにも触れると、都会には無いきれいな空が拝める幸せを感じるようになりました。
戦後になって、花巻郊外旧太田村に隠棲した光太郎も、同じようなことを感じていたような気がします。
ところで、今日は『福島民報』さんから引用させていただきましたが、やはり最近、ある全国紙の読書欄でも「福島」「智恵子抄」といった紹介が為されました。しかし、それを書いているのが、とにかく批判ありきの薄っぺらなセンセイですので、黙殺させていただきます。記事が載ったのに気づいてないの? と言われるのも癪なので弁明しますが、そのセンセイ、事実確認もろくすっぽせずにあっちにもこっちにも噛みついてばかりのどうしようもない方ですので(かえって辛口だからともてはやされているようです)、紹介する価値を見いだせません。内容的にも「内容が無いよう」でした(笑)。過去にはこのブログでも、そういう方だと知らなかった頃の新聞寄稿を一度だけ紹介してしまいましたが(笑)。
批判をするな、というのではありません。しかし批判のための批判としか読めないものは控えるべきではないでしょうか。
【折々のことば・光太郎】
まだ当分は山に引き籠つてゐて上京はせぬつもりで居ります。今日の不合理な旅をするのもイヤですし、東京の空気を考へると泥水の中へ行くやうな気がして気がすすみません。
都民の皆さん、気を悪くなさらないで下さいね(笑)。
詩の執筆は昭和3年(1928)5月11日、翌月、尾崎喜八らと一緒に出していた雑誌『東方』に発表されました。この年、智恵子は43歳(数え年です。以下同じ)。故郷の空に思いを馳せる、というと、やはりある程度の年齢になってからが多いのでしょうか。
明治40年(1910)に日本女子大学校を卒業した後、実家の反対を押し切って福島には帰らず、油絵画家として成功することを夢見ていた20代の頃は、「ほんとの空」を懐かしむ余裕もなく、がむしゃらに突っ走っていたのかも知れません。
大正3年(1914)、29歳で光太郎と結婚し(結婚披露は行ったものの入籍しない事実婚でした)、画家として行き詰まりを感じるようになると、「私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。彼女はよく東京には空が無いといつて歎いた。」(光太郎「智恵子の半生」昭和15年=1940)。
しかし、恐慌のあおりや、父の死後、あとを継いだ弟の不行跡で実家の造り酒屋・長沼酒店はどんどん傾き、「あどけない話」が書かれた前日には、不動産登記簿によると長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けています。光太郎がこうした事情を知らなかったとは考えにくく、その苦悩を「あどけない話」で暗示しているのでしょう。ちなみに翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、家族は離散、智恵子は帰るべき故郷と「ほんとの空」を失います。
それが決定打となって、心の病がどんどん昂進していったのでしょう。誰の目にも智恵子の異状が明らかになったのは光太郎の三陸旅行中の昭和6年(1931)、智恵子46歳の時からと言われますが、夫妻と親しかった深尾須磨子の回想などによれば、それ以前のかなり早い段階から、智恵子には異様な行動やつじつまの合わない発言が見られていたそうです。
現代の人々にも、「ほんとの空」が失われないうちに、それぞれの「ほんとの空」のある場所へと「帰行」するのも一つの選択肢だよ、と言いたいところですね。
ちなみに最近、自宅兼事務所近くでこんな看板を見付けました。
月極駐車場の看板ですが(笑)。
自分もUターン組でして、都内や東京近郊に住んでいた頃には、あまり「空」を意識していませんでしたが、田舎に引っ込み、ある程度年齢を重ね、さらに智恵子の「ほんとの空」への思いなどにも触れると、都会には無いきれいな空が拝める幸せを感じるようになりました。
戦後になって、花巻郊外旧太田村に隠棲した光太郎も、同じようなことを感じていたような気がします。
ところで、今日は『福島民報』さんから引用させていただきましたが、やはり最近、ある全国紙の読書欄でも「福島」「智恵子抄」といった紹介が為されました。しかし、それを書いているのが、とにかく批判ありきの薄っぺらなセンセイですので、黙殺させていただきます。記事が載ったのに気づいてないの? と言われるのも癪なので弁明しますが、そのセンセイ、事実確認もろくすっぽせずにあっちにもこっちにも噛みついてばかりのどうしようもない方ですので(かえって辛口だからともてはやされているようです)、紹介する価値を見いだせません。内容的にも「内容が無いよう」でした(笑)。過去にはこのブログでも、そういう方だと知らなかった頃の新聞寄稿を一度だけ紹介してしまいましたが(笑)。
批判をするな、というのではありません。しかし批判のための批判としか読めないものは控えるべきではないでしょうか。
【折々のことば・光太郎】
まだ当分は山に引き籠つてゐて上京はせぬつもりで居ります。今日の不合理な旅をするのもイヤですし、東京の空気を考へると泥水の中へ行くやうな気がして気がすすみません。
昭和23年(1948)4月18日 西出大三宛書簡より 光太郎66歳
都民の皆さん、気を悪くなさらないで下さいね(笑)。