東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連で、建立の中心メンバーだった元中学生と先生が、高知県の学校さんで特別授業という件。6月14日(金)には、いの町の伊野中学校さんで行われたことをご紹介しましたが、翌日、同県東洋町の中学校さんでも同様の防災授業を実施なさいました。

ミヤギテレビさんのローカルニュース。

<高知県で防災の講演>『震災』の教訓伝える<いのちの石碑>活動した宮城の中学校卒業生 『南海トラフ』の津波から命を守るためにー

『東日本大震災』後、宮城・女川町で避難の教訓を伝える<いのちの石碑>を建てる活動を行った中学校の卒業生が、高知県の中学校で防災の講演を行った。
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『南海トラフ』の津波から命を守るためにー。伝えたのは日ごろの備えと地域の絆づくりだ。

 宮城県から800キロ以上離れた高知県東部、徳島県との県境にある東洋町。海からすぐ近くにある全校生徒17人の甲浦中学校に、6月 震災の教訓を伝えるため宮城県から訪れた人がいる。
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 女川町出身・伊藤唯さん
「こんにちは。さっき紹介してもらいました伊藤唯と申します。よろしくお願いします」
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女川町出身の伊藤唯さんと、震災当時 女川町の中学校教員だった阿部一彦さん。

甲浦中学校の教員が防災研修で去年女川町を訪れた縁で、伊藤さんと阿部さんは地域の防災を考える講演会に招かれた。
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「机の下に潜ったんだけれど、揺れがすごいの。しがみついているのも必死だし、状況が理解できなくて。高台にある総合体育館に避難して、その時に津波を見たんだけれど、生き延びた後なんていったらいいかわからないけれど、必死だったので、何かを考えて行動することができない」
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『東日本大震災』の津波で、宮城・女川町は800人以上が犠牲となり、町は壊滅的な被害を受けた。
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一方の、高知・東洋町は『南海トラフ』の最大クラスの地震が発生した場合、5分後には最初の津波が到達し、最大19メートルの浸水想定となっている。
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津波避難タワーの建設など対策が進められているが、高知県の被害想定では東洋町の津波による犠牲者は人口の半分近く、1000人にのぼると推計されている。
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伊藤さんは、震災直後に入学した中学校で同級生と一緒に命を守る防災活動を行った。

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「1・絆を深める、 2・高台に避難できるまちづくり、 3・記録に残す。3つの対策を考えました」
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避難の教訓を、記録として1000年後まで伝えたい。
生徒自ら募金活動を行い、女川町の各浜の最高津波到達地点より高い場所に避難の目印として<いのちの石碑>を建てる活動を行った。
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女川1000年後のいのちを守る会 阿部一彦さん
「一番知っているのは、住んでいるみなさんなんです。自分たちの感覚で、こうしたいと言って絆とか高台とか記憶に残すことをやった。みなさんには、また別のやり方がある」

甲浦中学校では、大きな地震がきたら徒歩で10分ほどの小学校の裏山へ避難する計画だ。
津波到達まで時間が限られる中での避難行動。

震災当時の体験を聞いて、生徒たちは命を守るため自分たちにできることを考えた。

甲浦中学校の生徒
「地域の人と絆を深めて、どうすればいい?もし災害が起きて絆を深めていたら避難しやすいし…」
「(運動会などで)誰でも高齢者でも遊べるボッチャとかそういうゲームをしたらいい」
「高台に避難できるまちづくりをしたい」
「地域との交流活動をもっと増やして、もし災害が起きて避難した後も、交流があって助けてくれたりストレスが減ったらいいと思いました」
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生徒たちが考えたのは、地域の人と一緒に避難するための日ごろからの絆づくりだった。

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「いま私がやっているのは、みんなもやってほしいんだけれど、家族の安否がわからなくて3日も4日もわからないと、いろんなことを考えます。私は、今東京に住んでいるんだけれど、家族と離れているので、毎日連絡をとって明日どこにいるの、明日何をしているとか確認するようにしている。それを知っていると災害が起きた時に、今あそこにいると言っていたから大丈夫だなとかわかって安心できる」
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もしもに備えて日頃からできることをー。宮城・女川町から高知へ伝える教訓だ。

甲浦中学校 鶴和節子校長
「自分一人でできることは限りがある。まわりのひと、きょう来ている保護者の方、行政の方、地域のみなさんと一緒に進めたい」
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甲浦中学校 生松莉子さん
「自分の想像しているより地震がきたらつらいんだと思った。まだ家具の固定とか、夜地震が起こったときの対策もあまりしていないので、横にすぐ逃げられるように、靴を置いたりしておくとか対策をもっとしておきたい」

宮城・女川町の高台で津波避難の教訓を伝える<いのちの石碑>。
教訓が、全国の人の心の中に刻まれるように、これからも伝え続ける。
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女川1000年後のいのちを守る会 阿部一彦さん
「命は大事だよということは、もちろんだけれど、自分でやってみよう、何かできるのではと少しでも思ってもらえればそれでいい」

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「震災のこと、防災のこと、学ぶことを楽しんでもらえればいいと思う。一歩踏み出す勇気、自分にもなにかできるんじゃないかと思ってほしかった。実行してもらえれば嬉しい」

遠く高知まで出向かれてお話しをなさったお二人には頭が下がりますし、予想される南海トラフ地震に向けて対策を取ろうとされている高知県の学校さんも素晴らしいと思います。

ただ、ひっかかったのは、「高知県の被害想定では東洋町の津波による犠牲者は人口の半分近く、1000人にのぼると推計されている」という一節。言葉尻をとらえるわけではありませんが、「事前の対策が不十分であれば」的な但し書きを附け、「犠牲者ゼロを目指して万全の対策を行う」といった方向性でなければいけないのではないでしょうか。「言われなくてもやってるよ」ということかもしれませんが……。

こうした動きが全国に広まって欲しいものだと、改めて思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

鶏が卵を抱いてゐる由、たのしみでせう。こちらの山の中では鶏をかつても皆狐にとられてしまひます。狐は夜来てうまくとつてゆきます。


昭和23年(948)3月28日 高村美津枝宛書簡より 光太郎66歳

駒込林町の光太郎実家で暮らす令姪に送ったはがきから。まだ食糧事情の不安定だった昭和23年(1948)当時、都内の屋敷町でも鶏を飼うなどしていたのですね。光太郎が隠棲していた花巻郊外旧太田村では養鶏は不可能という理由、なるほどね、という感じでした。