6月29日(土)、杉並区阿佐谷の名曲喫茶ヴィオロンさんで開催された 「ノスタルジックな世界 ライブ 朗読&JAZZ演奏」を拝聴して参りました。
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阿佐ヶ谷駅近くの路地に佇むヴィオロンさん、「名曲喫茶」と冠されているだけあって、外装、内装ともにレトロな感じでした。まさに「昭和」。
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片隅で着流しにハンチングの光太郎とロイド眼鏡の草野心平がコーヒーカップを傾けていても、何の違和感もないような(笑)。

藤澤由二氏のピアノ演奏に乗せて、MIHOE氏が歌われたり朗読されたりという構成でした。以前からお二人で、またはゲストの方が入り、この会場で光太郎詩朗読を含む同様の公演が複数回あったのですが、なかなか都合がつかず、今回初めて拝聴することができました。

手書きコピーのプログラム。これもいい感じです。
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午後7時、開演。
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ピアノはYAMAHAさんのアップライトでしたが、おそらくバーチ(樺)の艶出し化粧板タイプ。もしかするとヴィンテージものかも知れません。残響、余韻が美しく、この会場にぴったりでした。
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朗読はMIHOE氏オリジナルの詩、寺山修二、中原中也と来て、我らが光太郎。「智恵子抄」から「千鳥と遊ぶ智恵子」と「値ひがたき智恵子」。ともに昭和12年(1937)の『改造』に発表されたもので、連作詩「猛獣篇」中の「よしきり鮫」「マント狒狒」「象」とともに「詩五篇」の総題が付けられていました。心を病んで夢幻界に行ってしまった智恵子もある意味「猛獣」に近い存在だと認識されていたのかも知れません。「千鳥……」では「人間商売さらりとやめて/もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子」、「値ひがたき……」だと「智恵子はもう人間界の切符を持たない」と謳われ、そういう感が見え隠れします。
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さらに朗読は太宰治、宮沢賢治、村上春樹、そして再びMIHOE氏オリジナル。合間に「Sentimental Me」「蘇州夜曲」などの歌唱。
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プログラムを見つつ、取り上げられている人々、ほとんどみんな光太郎と何らかの関わりがあるなぁなどと思って聴いておりました。

寺山は『さかさま文学史 黒髪篇』という著書の中で、「妻・智恵子」の章を設け「智恵子抄」をかなりアイロニカルに論じました。中也は第一詩集『山羊の歌』の題字揮毫・装幀を光太郎に依頼、太宰の実兄・津島文治は光太郎に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を依頼、そして光太郎らが世に広めた賢治。「蘇州夜曲」を歌った李香蘭は光太郎の前に中野の貸しアトリエを借りていたイサム・ノグチの妻……。

終演後、お二人とお話しさせていただき、さらに中野アトリエ保存のための署名もしていただきました。ありがたし。

今後とも、お二人のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

霧ヶ浜に遊んだ遠い昔を思ふこと切。あの時怪物のやうに何処までも風にころげてとんでいつた智恵子の日傘は、今思ふと、後年の運命を暗示してゐたやうです。


昭和23年(1948)2月27日 関谷祐規宛書簡より 光太郎66歳

関谷は千葉銚子在住の詩人。光太郎と交流のあった黄瀛(李香蘭の帰国に尽力しました)とも親しい間柄でした。「霧ヶ浜」は現在では「君ヶ浜」と表記されるのが普通ですが、かつては確かに「霧ヶ浜」とも呼ばれていました。銚子犬吠埼の北側に広がる砂浜です。したがって「あの時」は遠く大正元年(1912)晩夏、画を描きに来ていた光太郎を追って智恵子が犬吠に現れ、愛を誓った「あの時」ですね。