光太郎第二の故郷・岩手花巻にある道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売される弁当「光太郎ランチ」。メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは、鮭の塩焼き、豚肉とミズの煮物、スナップエンドウとニラのバター炒め、じゅんさいとイカの酢の物、伽羅蕗、グリーンピースご飯、白六穀ご飯、抹茶甘酒のゼリーだそうです。

「ミズ」はこの地でよく食べられている山菜、「伽羅蕗」はフキの佃煮ですね。意外と山菜好きの当方としては食欲をそそられます。

昨日もご紹介した6月1日(土)、NHK仙台放送局さん制作の東北6県向け情報番組「ウイークエンド東北」。建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関して報じて下さいましたが、それにからめ、東北各地で光太郎や智恵子の顕彰に当たられている人々がご紹介され、やつかの森LLCさんの中心メンバーのお一人、井形幸江さんも。
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GW中の5月4日(土)、5日(日)に花巻で開催された「土澤アートクラフトフェア2024春」で取材が行われ、画像は上記の光太郎ランチと同様の、光太郎が実際に作ったメニューや使った食材などを参考にした「こうたろう弁当」制作の模様です。
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井形さんの「食」にかける思い。
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なるほど。

しかし、そこにとどまらず……。旧太田村の高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)に移動してロケ。
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同感です。

最近見つけた、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎の長い談話筆記の一節。

 美はどこにでもある。といふことは結局美は発見だといふことです。美をみとめようとしない人には、美はわかりませんよ。そのかはり、美は発見しようとすればどこにでもあるといふのです。美は先刻もいつた通り、人間にとつて、もつとも根源的な力だから、美をみとめる力は誰しももつてゐるはずだけれど、それが心のなかで眼ざめずに眠つてゐるのだといへます。さういふ美にはぐれた人たちは実に気の毒です。それは美を発見する土台が与へられなかつたからだと思ひます。さういふ人は救はねばなりません。
 だから心をそこに留めれば美は至るところにあるわけで、私は本郷から上野までの間の道路を映画化して毎日何気なく通つてゐる道すぢに、無限の美があることを示さうとしたことがあるのです。それは道の上に落ちた木の葉とか、生垣、足跡、プラタナスのもとに立つたお巡りさん……といつたやうな日常平凡なものですが、それらの中に事実無限の美があるのです。

旧太田村の山小屋に移って約1年後の昭和21年(1946)9月1日『婦人朝日』第一巻第九号がソースです。題して「山里に美を語る」。

「映画化」云々は、一時16㍉カメラでの動画撮影に凝っていたことに由来すると思われます。昭和9年(1934)には、九十九里浜で千鳥と遊ぶ智恵子の姿もフィルムに収めました。しかし、カメラもフィルムも、昭和20年(1945)の空襲で焼けてしまいました。

閑話休題、「食」を足がかりとした光太郎顕彰、末永く継続して行かれることを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

東京では冬でも野菜が出来るのですが、ここの山の中では畠の上に雪が三尺近くかぶさつてゐて、雪のとける四月まではお休みです。村の人たちは雪の深い山へ炭焼に皆行つてゐます。その炭が東京の方へ行くのです。


昭和23年(1948)1月10日 高村美津枝宛書簡より 光太郎66歳

東京に住む令姪に宛てた葉書の一節です。何しろビニルハウスなども無かった時代ですから……。