晩年の光太郎に親炙し、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著作をはじめ、光太郎関連の書籍を多数刊行なさっている文治堂書店さん。PR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』を年に2回発行しています。
その第十八号が届きました。
手前味噌で恐縮ですが、連載を持たせていただいております。題して「連翹忌通信」。光太郎に関わるもろもろを徒然なるままに綴っております。そうそうネタもないので、大半はこのブログにも書いたことを再編することが多い感じです。
ただ、今号ではそうでなく、ほぼオリジナルの内容で書いてみました。キーワードは「佐佐野旅夫」。国立国会図書館さんのデジタルデータで閲覧できる資料が飛躍的に増えたことによって為された、ある意味、「残念な」発見です。
昭和59年(1984)4月3日、『読売新聞』さんの夕刊に「だれか佐佐野旅夫を知らないか」という記事が載りました。故・北川太一先生のご執筆です。要約しますと、その頃北川先生が入手された、雑誌『スバル』第四年第三号(明治45年=1912 3月)に、「地獄へ落つる人々」という戯曲が載っていました。作者は「佐佐野旅夫」。北川先生もご存じない名だったそうです。実際、グーグル等の検索では「佐佐野旅夫」の名は引っかかりませんし、『スバル』への寄稿はこの一篇のみで、同時代の他の主要な雑誌等にもその名が見えません。
「地獄へ落つる人々」、光太郎の親友で、明治43年(1910)に早世した彫刻家・荻原守衛を明らかにモデルにしたと思われる「山の井」という彫刻家や、守衛と親しかった画家・柳敬助を彷彿とさせる「海野」という画家などが登場します。ただし、「山の井」は既に亡くなっているという設定で、それでもその「亡霊」が登場したりします。そして「山の井」の遺作展会場や、「海野」のアトリエを訪れた人々が、「美」に取り憑かれ、次第に正気を失ったりしていく、という筋です。そこでタイトルが「地獄へ落つる人々」というわけです。
北川先生が入手された『スバル』の旧蔵者は、光太郎とも交流が深かった堀口大学。すると、「佐佐野旅夫」の名の脇に堀口によると思われる「高村」の書き込みがあったそうで、北川先生、「佐佐野旅夫」は光太郎の偽名なのでは? と推理されました。傍証が他にもいろいろありまして。
光太郎は既に明治38年(1905)の第一期『明星』巳歳第四号に、「青年画家」と題する戯曲を発表しています。こちらはきちんと光太郎の名で出ています。そして「地獄へ落つる人々」といくつかの共通点が。まず若い芸術家を主人公とし、その周辺人物との関わりを追っている点、すったもんだの末のカタストロフ的な結末などなど。さらに「地獄へ落つる人々」には、主人公のパリ体験が描かれ、北川先生曰く「画家の米欧体験や、幻想の中でのパリの娼婦が歌う小曲、天上する火炎に終わる幕切れなど、いずれも高村さんの介在を想像させる」。
その第十八号が届きました。
手前味噌で恐縮ですが、連載を持たせていただいております。題して「連翹忌通信」。光太郎に関わるもろもろを徒然なるままに綴っております。そうそうネタもないので、大半はこのブログにも書いたことを再編することが多い感じです。
ただ、今号ではそうでなく、ほぼオリジナルの内容で書いてみました。キーワードは「佐佐野旅夫」。国立国会図書館さんのデジタルデータで閲覧できる資料が飛躍的に増えたことによって為された、ある意味、「残念な」発見です。
昭和59年(1984)4月3日、『読売新聞』さんの夕刊に「だれか佐佐野旅夫を知らないか」という記事が載りました。故・北川太一先生のご執筆です。要約しますと、その頃北川先生が入手された、雑誌『スバル』第四年第三号(明治45年=1912 3月)に、「地獄へ落つる人々」という戯曲が載っていました。作者は「佐佐野旅夫」。北川先生もご存じない名だったそうです。実際、グーグル等の検索では「佐佐野旅夫」の名は引っかかりませんし、『スバル』への寄稿はこの一篇のみで、同時代の他の主要な雑誌等にもその名が見えません。
「地獄へ落つる人々」、光太郎の親友で、明治43年(1910)に早世した彫刻家・荻原守衛を明らかにモデルにしたと思われる「山の井」という彫刻家や、守衛と親しかった画家・柳敬助を彷彿とさせる「海野」という画家などが登場します。ただし、「山の井」は既に亡くなっているという設定で、それでもその「亡霊」が登場したりします。そして「山の井」の遺作展会場や、「海野」のアトリエを訪れた人々が、「美」に取り憑かれ、次第に正気を失ったりしていく、という筋です。そこでタイトルが「地獄へ落つる人々」というわけです。
北川先生が入手された『スバル』の旧蔵者は、光太郎とも交流が深かった堀口大学。すると、「佐佐野旅夫」の名の脇に堀口によると思われる「高村」の書き込みがあったそうで、北川先生、「佐佐野旅夫」は光太郎の偽名なのでは? と推理されました。傍証が他にもいろいろありまして。
光太郎は既に明治38年(1905)の第一期『明星』巳歳第四号に、「青年画家」と題する戯曲を発表しています。こちらはきちんと光太郎の名で出ています。そして「地獄へ落つる人々」といくつかの共通点が。まず若い芸術家を主人公とし、その周辺人物との関わりを追っている点、すったもんだの末のカタストロフ的な結末などなど。さらに「地獄へ落つる人々」には、主人公のパリ体験が描かれ、北川先生曰く「画家の米欧体験や、幻想の中でのパリの娼婦が歌う小曲、天上する火炎に終わる幕切れなど、いずれも高村さんの介在を想像させる」。
そこで北川先生、平成10年(1998)発行の『高村光太郎全集』別巻に、「参考作品」として「地獄へ落つる人々」を掲載なさいました。その「解題」に曰く「この題材で、この戯曲を、『スバル』寄稿者では他の誰が書き得ただろうか」。ほぼ「佐佐野旅夫」=「高村光太郎」と確信なさっていたという感じですね。
「誰か佐佐野旅夫を知らないか」は、先述の通り『読売新聞』に掲載された後、平成3年(1991)に文治堂書店さんから刊行れた北川先生の著作集『高村光太郎ノート』に収められました。
それを読んだ当方、何とか「佐佐野旅夫」=「高村光太郎」を証明できないかと、新たな資料の発見に努めました。しかし、何らの情報も得られませんでした。
そこへ来て、先述の国会図書館さんのデジタルデータリニューアル。通常のネット検索ではヒットしない情報もかなり得られます。そこでキーワード「佐佐野旅夫」で検索してみると、意外にも多数ヒットしました。「佐佐野旅夫」は『少年世界』、『幼年世界』、『女子文壇』、『地球』という、それぞれ博文館刊行の雑誌に寄稿していたのです。いずれも「地獄へ落つる人々」と同じく明治から大正に改元された1912年のものでした。博文館刊行の雑誌はどれも稀覯の範疇に入り、なかなか北川先生に目には留まらなかったようです。
佐々木好母(このも)は、光太郎より五歳年少の明治21年(1888)生まれ。この時期の『スバル』に本名での寄稿も見られます。ただ、一高から帝大に進み、さらに医師となって文筆からは遠ざかったようです。そして佐々木について調べてみると、共に『スバル』寄稿者であったという以外にも、光太郎との繋がりが……。
と、まぁ、今回の『とんぼ』では概ねこの辺りまで書きました。次号に佐々木と光太郎の繋がり、さらに佐々木が「地獄へ落つる人々」を書くに至った経緯といった点を書いてみようと思っております。
さて、『とんぼ』、編集は光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の中心人物、曽我貢誠氏です。そこで版元の文治堂書店さんも保存運動に一枚噛み、いろいろなさっています。そんなわけで今号では、保存運動に関する内容も。そのあたりを明日、ご紹介いたします。
【折々のことば・光太郎】
小生も今年は洋服を都合しなければ、着衣がなくなるわけなので、今ホームスパンを織つてもらふことにしてゐます。原料が相当にかかるやうです。
オーダーメイドの猟人服、花巻町郊土沢在住だったホームスパン作家・及川全三の知遇を得、及川の弟子筋に生地を、仕立ては盛岡在住の四戸慈文(画家・深沢紅子の父)に頼みました。
現在、花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。
それを読んだ当方、何とか「佐佐野旅夫」=「高村光太郎」を証明できないかと、新たな資料の発見に努めました。しかし、何らの情報も得られませんでした。
そこへ来て、先述の国会図書館さんのデジタルデータリニューアル。通常のネット検索ではヒットしない情報もかなり得られます。そこでキーワード「佐佐野旅夫」で検索してみると、意外にも多数ヒットしました。「佐佐野旅夫」は『少年世界』、『幼年世界』、『女子文壇』、『地球』という、それぞれ博文館刊行の雑誌に寄稿していたのです。いずれも「地獄へ落つる人々」と同じく明治から大正に改元された1912年のものでした。博文館刊行の雑誌はどれも稀覯の範疇に入り、なかなか北川先生に目には留まらなかったようです。
北川先生の推理通り、「佐佐野旅夫」が光太郎の偽名だとすると、偽名でこんなに寄稿するものだろうかと疑問に思い、更に調べ続けたところ、決定的な資料を見つけました。 大正2年(1913)、「第一高等学校寄宿寮編纂」とクレジットのある『向陵誌』という書籍です。旧制の第一高等学校は東京帝国大学の予科で、『向陵誌』は、その自治寮と、同校の部活動の沿革が記された書籍でした。
そして文芸部の略史の中に「佐佐野旅夫」の名が。同部発行の文芸誌『文のその』(後に『文園』と改題)について述べられている箇所で「二百一号には佐々野旅夫氏(好母氏の匿名なり)の巧妙なる「蟇」の歌見るべく」とありました。「好母」は、すぐ前の部分に「佐々木好母」という名が挙げられており、その人物でしょう。これが「佐佐野旅夫」の正体と思ってまず間違いありますまい。
佐々木好母(このも)は、光太郎より五歳年少の明治21年(1888)生まれ。この時期の『スバル』に本名での寄稿も見られます。ただ、一高から帝大に進み、さらに医師となって文筆からは遠ざかったようです。そして佐々木について調べてみると、共に『スバル』寄稿者であったという以外にも、光太郎との繋がりが……。
と、まぁ、今回の『とんぼ』では概ねこの辺りまで書きました。次号に佐々木と光太郎の繋がり、さらに佐々木が「地獄へ落つる人々」を書くに至った経緯といった点を書いてみようと思っております。
さて、『とんぼ』、編集は光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の中心人物、曽我貢誠氏です。そこで版元の文治堂書店さんも保存運動に一枚噛み、いろいろなさっています。そんなわけで今号では、保存運動に関する内容も。そのあたりを明日、ご紹介いたします。
【折々のことば・光太郎】
小生も今年は洋服を都合しなければ、着衣がなくなるわけなので、今ホームスパンを織つてもらふことにしてゐます。原料が相当にかかるやうです。
昭和23年(1948)1月6日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳
オーダーメイドの猟人服、花巻町郊土沢在住だったホームスパン作家・及川全三の知遇を得、及川の弟子筋に生地を、仕立ては盛岡在住の四戸慈文(画家・深沢紅子の父)に頼みました。
現在、花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。
ガタイのでかい光太郎ですし、ポケットをたくさんつけてほしいという要望で、その分、原料の羊毛が大量に必要になったようです。