6月9日(日)、花巻市のなはんプラザで開催されましたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」。地方紙で報道されていますのでご紹介します。

まず、『岩手日日』さん。

智恵子エプロン披露も 高校生がデザイン復刻 高村光太郎顕彰イベント

000 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は9日、ゆかりの先人高村光太郎(1883~1956年)の顕彰イベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開いた。参加者は、光太郎に関する児童生徒の学習活動や光太郎が暮らした環境に理解を深めるとともに、生前の食卓を再現した昼食を楽しみ、光太郎の暮らしぶりに触れた。
 光太郎に関する認知度・親密度を高め、顕彰活動の維持向上が目的。2022年度の対談、23年度のトークリレーに続き企画した。
 市立太田小学校の藤田聖子校長は「正直親切」を掲げた学校活動や総合学習の時間の柱となっている光太郎先生学習の実践内容などについて紹介。県立花巻南高校文芸部の生徒は光太郎と宮沢家や花巻とのつながりを調べた成果、同校家庭クラブの生徒は「智恵子さんのエプロン復刻プロジェクト」、県環境アドバイザーの望月達也さんは光太郎が7年間暮らした巨木林がある山口山の環境を映像で紹介した。
 同プロジェクトでは、大正時代の雑誌「婦人之友」に掲載された光太郎の妻智恵子がデザインしたエプロンを、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の協力を得て製作。酒を搾る時に使った袋を生地に使い、古代更紗で縁を取り、中央に大きなポケットが付いている。同校2年の高橋萌菜さんは「酒袋には防水や防腐などの効果があり、智恵子の実家が福島の造り酒屋だったことから酒袋を利用したと思う。使い方や組み合わせからリメークして生活を楽しんでいたことがうかがえる」と語った。
 昼食には「ソバ粉のむしパン」など光太郎の日記や書簡に残っている記録からイメージして再現した弁当を味わった。
 イベントは同市大通りのなはんプラザで開かれ、約100人が参加。平賀会長は「光太郎について学び、次世代に語り継いでいくことが大切。地元太田からもっと情報を発信して光太郎ファンになってもらい、高村山荘や高村光太郎記念館を訪れる人が増え、地域の活性化につなげたい」と話していた。


続いて、『岩手日報』さん。

いわて旧村巡り 40/642 太田村 現花巻市太田 光太郎顕彰 脈々と 清掃やエプロン復刻 地区振興会 活動を共有

001 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は9日、同市大通りのなはんプラザで「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開いた。参加者は、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)に関する地元の小学校、高校の取り組みなどを共有し、地域を愛した偉人の顕彰を誓った。
 市内外の約100人が参加。太田小の藤田聖子校長(59)は、児童による高村山荘周辺の清掃や詩の音読活動など紹介した。市内の多くの小学校では宮沢賢治を「賢治先生」と呼ぶ一方、「太田小では先生といえば光太郎。『光太郎先生』『賢治さん』と呼んでいる」と説明した。
 花巻南高の家庭クラブは、妻智恵子が使ったエプロンの復刻制作について発表。大正時代に雑誌「婦人之友」に掲載されたもので、同校文芸部の依頼で取り組みを始めた。研究者のブログなどを参考に作り、酒袋や古代更紗(さらさ)を使った完成品を披露した。
 1年の小原優羽奈さんは「制作の合間に光太郎や智恵子について調べた。活動を通じ視野が広がった」と学びを深めた様子だった。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、賢治の実家を頼って花巻に疎開。太田村(現花巻市太田)に移り、約7年間過ごした。山荘生活の中、詩や書の創作に励み、旧山口小学校児童ら住民と交流を深めた。
 同日は、当時の日記などに残る食事記録を基にした弁当も提供され、光太郎が口にした「ソバ粉のむしパン」から着想したそば粉のパンケーキなど味わった。
 新型コロナウイルス禍を機に地元の高村祭の中止が続く中、振興会は2022年度から催しを継続する。平賀会長(73)は「光太郎を知る輪が広がる機会となった」と充実感をにじませ高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表(59)=千葉県=は「若い人たちが(伝承の)バトンを受け継いでいる。光太郎が愛した旧太田村に残る自然は宝だ」と評した。


やはり智恵子のエプロンに関してはインパクトが強かったようで、2紙ともそちらを前面に押し出しています。下画像は家庭クラブさんのスライドショーから。
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また、2紙とも紙幅の都合もあったと思われ、詳細が取り上げられませんでしたが、文芸部さんの発表は、光太郎と花巻との関わり、智恵子についてを知る上での、ある意味基調講演のような役割を果たして下さいましたし、文芸部さん自体プラス地域の方々の活動も紹介され、会場の皆さんの興味を惹いたようです。
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太田小さんは、まさに学校ぐるみで取り組んで下さっていることがわかり、ただただ感謝です。
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『岩手日報』さんの当方コメント最後の部分「光太郎が愛した旧太田村に残る自然は宝だ」は岩手県環境アドバイザー・望月達也氏のご発表を受けてのものです。
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さらにランチが加わり、そんなこんなで、実に有意義なイベントでした。

各団体さんの取り組み、今後の継続とさらなる発展を願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

来年は相当に書くでせう。彫刻にも手をつけるでせう。


昭和22年(1947)12月31日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

旧太田村での生活、足かけ3年目の昭和22年(1947)が暮れて行きました。

新年へ向けての、詩や文章、書などを「書くでせう」は実現したものの、「彫刻にも手をつけるでせう」は、戦争への加担に対する自責の念の深化に伴い、逆に自らへの罰として封印する方向に転じてしまいます。