東北レポート、最終回です。6月8日(土)、花巻に行く前に立ち寄った仙台をレポートいたします。
午前11時前、仙台駅に到着。
駅前のデッキ、何やら人やまの黒だかり、しかもみんな空を見上げています。「何事?」と思ったところ、轟音と共に現れたのが……
空自さんのブルーインパルスでした。この日は「東北絆まつり」だったそうで、その関係で飛んでいたようです。
その後、地下鉄南北線で台原駅まで。そこから台原森林公園を突っ切って、仙台文学館さんを目指しました。
公園入口にはブロンズ像。仙台と言えば佐藤忠良かな、と思ったのですが、佐藤と親しかった舟越保武の作品でした。そういえば田沢湖のたつこ像にも似ています。
舟越にしても佐藤にしても、光太郎の影響で彫刻の道に進み、光太郎と直接の交流を持ち、さらに光太郎のDNAを受け継いだと言っていい存在です。
森林公園内はかなりの山道。都会の人はこういう道を「いいなあ」と感じるのでしょうが、千葉の自宅兼事務所周辺もこんな風景なので、当方にとっては今更感(笑)。
文学館さんには裏口から入ることになりました。
こちらでは、開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」が開催中です。
石川は明治34年(1901)、仙台の生まれ。光太郎より18歳下の詩人です。昭和7年(1932)に不慮の事故により満31歳の若さで亡くなりました。生前に詩集が刊行されることはありませんでしたが、歿後の昭和11年(1936)に友人たちの手で、『亜寒帯』が刊行されました。序文は光太郎。石川は光太郎とも交流があり、その関係です。
『高村光太郎全集』では、その序文以外の箇所に石川の名が出て来ません。そこで、光太郎と石川の間にどんな交流があったのか、今一つ分からなかったのですが、今回の展示で出品された、石川から詩人の郡山弘史に宛てた書簡に、光太郎、石川、そしてやはり詩人の小森盛で酒を呑み、その帰途、泥酔して小森と共に谷中警察署に一晩拘留されたことなどが記されていました。昭和4年(1929)のことでした。
光太郎による『亜寒帯』の序には、石川が草野心平の経営していた焼鳥屋「いわき」に来ていた様子が記され、心平繋がりで光太郎と石川が出会ったのかな、と思っていたのですが、展示の説明パネルによれば、二人を結びつけたのは小森らしいとのこと。いずれにしても小森も心平人脈の一角にいた人物です。
図録、出品目録がこちら。
図録の「善助の交友」、最初に光太郎の項。
最後の部分、「光太郎から座敷童子の話を聞いた」とあり、これも存じませんでした。
国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、やはり石川歿後の昭和8年(1933)に刊行されたエッセイ集『鴉射亭随筆』巻頭の「寂莫紀」に、以下の記述がありました。
いつか高村氏のお話に、階下のアトリヱで、ひどく巫山戯る子供らしい物音を深夜きいたといふのを私はうかがつたことがある。
国会図書館さんのデジタルデータは細かく当たっているのですが、これは見落としていました。「高村光太郎氏」となっていれば気づいたのですが、「高村氏」としか書かれていないのが原因です。この箇所に「座敷童子」の語はありませんが、この前の部分で、宮沢賢治から聞いた座敷童子の話などが紹介されており、その流れです。
そして賢治。石川は生前の賢治と会ったことがある数少ない詩人の一人。そこで賢治関連の展示もありましたし、前述の小森盛、心平、さらに尾形亀之助、天江富弥など、やはり光太郎とも交流のあった面々に関しても。
右上は図録とは別に無料配付されていた冊子。『亜寒帯』の復刻版を出されたあるきみ屋さんの制作です。マンガのページがあり、残念ながら光太郎は登場しませんが、賢治と石川の出会いは描かれています。
石川善助、もっともっと注目されていい詩人ですね。そういう意味では今回の展示が一つの契機となればと存じます。
常設展的な区画には、ぼのぼのも居ました(笑)。作者のいがらしみきお氏が仙台ご在住ですので。こちらは撮影可。
ロビーでは、石川善助展を報じる新聞記事。
さらにこんなものも。
開館25周年ということで、これまでに開催された企画展示の図録等です。
平成18年(2006)に開催された「高村光太郎・智恵子展 -その芸術と愛の過程-」のそれも。
当時のフライヤー等。
当方、同館を訪れたのはこの時が初めてでした。もう20年近く経つのか、という感じです。
この際には光太郎令甥・髙村規氏、それから当会顧問であらせられた北川太一先生のご講演が関連行事として行われました。お二人とも既に虹の橋を渡られてしまいましたが……。
正午過ぎ、同館を後に、路線バスで仙台駅に。花巻に向かう東北新幹線下りホームに行くと、見慣れない紅白の車輌が停車していました。
当方、鉄道マニアではないので詳しくありません。「何じゃ、こりゃ?」でした。見ると、車体側面に「East i」のロゴ。スマホで調べてみると、JR東日本さんの保守点検用の車輌でした。JR東海さんの「ドクターイエロー」のようなものなのでしょう。「ドクターイエロー」は11年前に名古屋で行き会いましたが、こちらは初めて見ました。ブルーインパルスといい、珍しいものに遭遇する日でした(笑)。
この後、やまびこ号に乗り込み、新花巻駅へ。昨日のブログ、そして一昨日のブログに続きます。
以上、東北レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
今年は去年よりも寒気が弱いやうですが、早朝は零下十五、六度を上下してゐます。起きて囲炉裏に火を焚いて暖をとるのはたのしみです。まづ湯を沸してから一切の生活がはじまるわけです。雪かきはおもしろく、今に雪の彫刻をつくる気です。
「雪の彫刻」に関しては、翌年、「人体飢餓」という詩に現れます。雪女の姿を雪で作るという夢想です。
午前11時前、仙台駅に到着。
駅前のデッキ、何やら人やまの黒だかり、しかもみんな空を見上げています。「何事?」と思ったところ、轟音と共に現れたのが……
空自さんのブルーインパルスでした。この日は「東北絆まつり」だったそうで、その関係で飛んでいたようです。
その後、地下鉄南北線で台原駅まで。そこから台原森林公園を突っ切って、仙台文学館さんを目指しました。
公園入口にはブロンズ像。仙台と言えば佐藤忠良かな、と思ったのですが、佐藤と親しかった舟越保武の作品でした。そういえば田沢湖のたつこ像にも似ています。
舟越にしても佐藤にしても、光太郎の影響で彫刻の道に進み、光太郎と直接の交流を持ち、さらに光太郎のDNAを受け継いだと言っていい存在です。
森林公園内はかなりの山道。都会の人はこういう道を「いいなあ」と感じるのでしょうが、千葉の自宅兼事務所周辺もこんな風景なので、当方にとっては今更感(笑)。
文学館さんには裏口から入ることになりました。
こちらでは、開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」が開催中です。
石川は明治34年(1901)、仙台の生まれ。光太郎より18歳下の詩人です。昭和7年(1932)に不慮の事故により満31歳の若さで亡くなりました。生前に詩集が刊行されることはありませんでしたが、歿後の昭和11年(1936)に友人たちの手で、『亜寒帯』が刊行されました。序文は光太郎。石川は光太郎とも交流があり、その関係です。
『高村光太郎全集』では、その序文以外の箇所に石川の名が出て来ません。そこで、光太郎と石川の間にどんな交流があったのか、今一つ分からなかったのですが、今回の展示で出品された、石川から詩人の郡山弘史に宛てた書簡に、光太郎、石川、そしてやはり詩人の小森盛で酒を呑み、その帰途、泥酔して小森と共に谷中警察署に一晩拘留されたことなどが記されていました。昭和4年(1929)のことでした。
光太郎による『亜寒帯』の序には、石川が草野心平の経営していた焼鳥屋「いわき」に来ていた様子が記され、心平繋がりで光太郎と石川が出会ったのかな、と思っていたのですが、展示の説明パネルによれば、二人を結びつけたのは小森らしいとのこと。いずれにしても小森も心平人脈の一角にいた人物です。
図録、出品目録がこちら。
図録の「善助の交友」、最初に光太郎の項。
最後の部分、「光太郎から座敷童子の話を聞いた」とあり、これも存じませんでした。
国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、やはり石川歿後の昭和8年(1933)に刊行されたエッセイ集『鴉射亭随筆』巻頭の「寂莫紀」に、以下の記述がありました。
いつか高村氏のお話に、階下のアトリヱで、ひどく巫山戯る子供らしい物音を深夜きいたといふのを私はうかがつたことがある。
国会図書館さんのデジタルデータは細かく当たっているのですが、これは見落としていました。「高村光太郎氏」となっていれば気づいたのですが、「高村氏」としか書かれていないのが原因です。この箇所に「座敷童子」の語はありませんが、この前の部分で、宮沢賢治から聞いた座敷童子の話などが紹介されており、その流れです。
そして賢治。石川は生前の賢治と会ったことがある数少ない詩人の一人。そこで賢治関連の展示もありましたし、前述の小森盛、心平、さらに尾形亀之助、天江富弥など、やはり光太郎とも交流のあった面々に関しても。
右上は図録とは別に無料配付されていた冊子。『亜寒帯』の復刻版を出されたあるきみ屋さんの制作です。マンガのページがあり、残念ながら光太郎は登場しませんが、賢治と石川の出会いは描かれています。
石川善助、もっともっと注目されていい詩人ですね。そういう意味では今回の展示が一つの契機となればと存じます。
常設展的な区画には、ぼのぼのも居ました(笑)。作者のいがらしみきお氏が仙台ご在住ですので。こちらは撮影可。
ロビーでは、石川善助展を報じる新聞記事。
さらにこんなものも。
開館25周年ということで、これまでに開催された企画展示の図録等です。
平成18年(2006)に開催された「高村光太郎・智恵子展 -その芸術と愛の過程-」のそれも。
当時のフライヤー等。
当方、同館を訪れたのはこの時が初めてでした。もう20年近く経つのか、という感じです。
この際には光太郎令甥・髙村規氏、それから当会顧問であらせられた北川太一先生のご講演が関連行事として行われました。お二人とも既に虹の橋を渡られてしまいましたが……。
正午過ぎ、同館を後に、路線バスで仙台駅に。花巻に向かう東北新幹線下りホームに行くと、見慣れない紅白の車輌が停車していました。
当方、鉄道マニアではないので詳しくありません。「何じゃ、こりゃ?」でした。見ると、車体側面に「East i」のロゴ。スマホで調べてみると、JR東日本さんの保守点検用の車輌でした。JR東海さんの「ドクターイエロー」のようなものなのでしょう。「ドクターイエロー」は11年前に名古屋で行き会いましたが、こちらは初めて見ました。ブルーインパルスといい、珍しいものに遭遇する日でした(笑)。
この後、やまびこ号に乗り込み、新花巻駅へ。昨日のブログ、そして一昨日のブログに続きます。
以上、東北レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
今年は去年よりも寒気が弱いやうですが、早朝は零下十五、六度を上下してゐます。起きて囲炉裏に火を焚いて暖をとるのはたのしみです。まづ湯を沸してから一切の生活がはじまるわけです。雪かきはおもしろく、今に雪の彫刻をつくる気です。
昭和22年(1947)12月31日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳
「雪の彫刻」に関しては、翌年、「人体飢餓」という詩に現れます。雪女の姿を雪で作るという夢想です。
雪女出ろ。
この彫刻家をとつて食へ。
とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
その時彫刻家は雪でつくる。
汝のしなやかな胴体を。
その弾力ある二つの隆起と、
その陰影ある陥没と、
その背面の平滑地帯と膨満部とを。
「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。