昨日は、6月9日(日)に花巻市で開催されたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の模様をご紹介いたしました。
今日は遡って前日の6月8日(土)、花巻に到着してからのレポートを。
いつものように東北新幹線新花巻駅に降り立ち、予約して置いたレンタカーを受けとって、旧太田村の高村山荘/高村光太郎記念館さんを目指しました。今年2月以来です。
まずは手前の高村光太郎記念館さん。
こちらではテーマ展「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中。
光太郎が戦後の7年間を過ごしたこのあたり一帯で描かれた山野草などのスケッチ(複製)を中心にした展示です。
スケッチと描かれた植物の写真とを並べて展示。このあたり一帯の環境破壊が進んでいないためにできることですね。もしかすると、中には描かれている植物がもはや見あたらない、というケースもあるのかも知れませんが。
昭和26年(1951)秋に撮られた写真も。
それから光太郎の肉筆原稿。
昭和25年(1950)刊行の詩文集『智恵子抄その後』が初出と推定される「七月一日」と題するエッセイ。つくづく味のある文字です。
昭和22年(1947)の雑誌『至上律』に口絵としてカラー印刷で掲載された「太田村山口部落 鉛筆淡彩素描」(複製)。当時の太田村山口地区は茅葺きの農家ばかりだったのですね。少し離れた所には開拓地が設けられ、引き揚げ者などが続々入植、そちらはまた違った感じだったのでしょうが。
今日のブログ、一番下の【折々のことば・光太郎】を併せてご覧下さい。
この展示、これはこれで見応えはあるのですが、問題も。まず、昨年、ほぼ同じ内容のテーマ展示を行っているということ。どうしても二番煎じ感がぬぐえません。「またか」という感じなのでしょうか、地元メディア等にもあまり紹介されていません。積極的に宣伝もしていないのかもしれません。
それから、壁面を使ったパネルやスケッチ等の展示のみであるということ。平面的というか、平板というか、美術館等での絵画の展示はそうなりがちですが、展示ケース等を活用すればもっと立体的に変化をつけた展示が出来るはずなのですが……。聞くところによると、使用出来る展示ケースが無いとのこと。ちょっと有りえない事態なんじゃないかな、と思い、市の方には何とかしてくれと提言はしておきました。
まだ詳細は公表されていないので内容は明かせませんが、先月、新たな資料がごっそりと寄贈されました。質・量ともにとんでもない品々です。いずれそれらの展示も為されるはずですが、その際には二次元的な展示に終わることの無いようにしていただきたいものです。
こちらを拝見後、隣接する、といっても数百メートル離れていますが、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)へ。
いつものことですが「また来ました」と遺影に合掌。
そろそろ閉館時間で、そうなると熊の出没も心配ですので、周辺散策はせずに引き上げました。
小屋の南側、かつて光太郎が三畝の畑を営んでいた一角には、ハナショウブでしょうか。「では、また」と念じつつ。
レンタカーを東に向けました。いつもは北に向けて定宿の花巻南温泉峡の大沢温泉さんなのですが、今回は宿泊予約が取れず、やむなく花巻空港近くのルートインさんに。
たまにはこういうのもありかな、という感じでした。
夕食は、翌日の「五感で楽しむ光太郎ライフ」打ち合わせを兼ね、共催に入られているやつかの森LLCの皆さんと、市内の和食店で。
その席上、というか会食開始前、「こんなものが出てきました」と、見せられたのがこちら。
光太郎に山小屋の土地を提供した旧太田村の顔役の一人、駿河重次郎宛の葉書2通です。共に差し出し元は「乙女の像」制作のため借りた中野区の貸しアトリエ。保存運動が起きている場所です。
1通目は昭和28年(1953)10月11日。
「青森」云々は10月21日に行われた、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式参加を指します。「山」は太田村山口地区。除幕式後、25日に帰京した光太郎は、11月25日から12月5日、太田村に帰りましたが、半分はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のロケのためでした。映画には駿河夫妻も出演しています。
太田村から帰京したあとで投函された2通目ではその映画についても言及。
同じ昭和28年(1953)12月25日付けです。
この頃、光太郎は宿痾の肺結核が悪化。そこで厳冬期には中野の貸しアトリエで、それ以外は太田村の山小屋で、と二重生活を目論んでいたようなのですが、もはや健康状態が山での暮らしに耐えられる状態ではなく、結局、太田村に帰ったのはこの時が最後となりました。
見せられた際には「新発見かも」と思ったのですが、帰りましてから調べたところ、2通とも既に『高村光太郎全集』に収録済みでした。貴重なものであることには変わりありませんが。
それから、ソースが不明なのですが、何かの雑誌の切り抜き。表は管理を任されていた光太郎の山小屋内で撮られた駿河の写真。
光太郎もそうでしたが、古武士のような風格ですね。
裏は山小屋近くに昭和33年(1958)に除幕された光太郎詩「雪白く積めり」碑。山小屋近くの山口小学校の児童が碑を取り囲んでいます。おそらく竣工間もない頃と思われます。ことによると現在地に設置する前なんじゃないかとも思えます。
すべて駿河の令孫のご所蔵。貴重なものを拝見できました。
この後、ホテルに帰り、翌朝は「五感で楽しむ光太郎ライフ」の前に、以外とホテルに近かったので、花巻農業高校さんへ。
宮沢賢治の羅須地人協会の建物が移築されています。
この像、以前に見た時には作者名を見落としていたのですが、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たり、智恵子の故郷・福島二本松に2体の智恵子像を作られた故・橋本堅太郎氏の作です。不思議な縁を感じました。
そして在来線東北本線花巻駅前のなはんプラザさんへ。この後、昨日のブログに続きます。
明日はさらに遡って、花巻到着前に立ち寄った仙台をレポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
おハガキ忝く拝見、「至上律」のは随分ひどい印刷でやれやれと思ひました。あの屋根の中に村長さんの家もあります。うしろの山の三ツ目の山には熊がゐます。
上記の高村光太郎記念館テーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」で展示されているスケッチ「太田村山口部落 鉛筆淡彩素描」に関してです。この当時のカラー印刷のクオリティはまだまだでした。それもあって、光太郎は生前には智恵子の紙絵の画集としての出版は承諾しませんでした。
今日は遡って前日の6月8日(土)、花巻に到着してからのレポートを。
いつものように東北新幹線新花巻駅に降り立ち、予約して置いたレンタカーを受けとって、旧太田村の高村山荘/高村光太郎記念館さんを目指しました。今年2月以来です。
まずは手前の高村光太郎記念館さん。
こちらではテーマ展「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中。
光太郎が戦後の7年間を過ごしたこのあたり一帯で描かれた山野草などのスケッチ(複製)を中心にした展示です。
スケッチと描かれた植物の写真とを並べて展示。このあたり一帯の環境破壊が進んでいないためにできることですね。もしかすると、中には描かれている植物がもはや見あたらない、というケースもあるのかも知れませんが。
昭和26年(1951)秋に撮られた写真も。
それから光太郎の肉筆原稿。
昭和25年(1950)刊行の詩文集『智恵子抄その後』が初出と推定される「七月一日」と題するエッセイ。つくづく味のある文字です。
昭和22年(1947)の雑誌『至上律』に口絵としてカラー印刷で掲載された「太田村山口部落 鉛筆淡彩素描」(複製)。当時の太田村山口地区は茅葺きの農家ばかりだったのですね。少し離れた所には開拓地が設けられ、引き揚げ者などが続々入植、そちらはまた違った感じだったのでしょうが。
今日のブログ、一番下の【折々のことば・光太郎】を併せてご覧下さい。
この展示、これはこれで見応えはあるのですが、問題も。まず、昨年、ほぼ同じ内容のテーマ展示を行っているということ。どうしても二番煎じ感がぬぐえません。「またか」という感じなのでしょうか、地元メディア等にもあまり紹介されていません。積極的に宣伝もしていないのかもしれません。
それから、壁面を使ったパネルやスケッチ等の展示のみであるということ。平面的というか、平板というか、美術館等での絵画の展示はそうなりがちですが、展示ケース等を活用すればもっと立体的に変化をつけた展示が出来るはずなのですが……。聞くところによると、使用出来る展示ケースが無いとのこと。ちょっと有りえない事態なんじゃないかな、と思い、市の方には何とかしてくれと提言はしておきました。
まだ詳細は公表されていないので内容は明かせませんが、先月、新たな資料がごっそりと寄贈されました。質・量ともにとんでもない品々です。いずれそれらの展示も為されるはずですが、その際には二次元的な展示に終わることの無いようにしていただきたいものです。
こちらを拝見後、隣接する、といっても数百メートル離れていますが、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)へ。
いつものことですが「また来ました」と遺影に合掌。
そろそろ閉館時間で、そうなると熊の出没も心配ですので、周辺散策はせずに引き上げました。
小屋の南側、かつて光太郎が三畝の畑を営んでいた一角には、ハナショウブでしょうか。「では、また」と念じつつ。
レンタカーを東に向けました。いつもは北に向けて定宿の花巻南温泉峡の大沢温泉さんなのですが、今回は宿泊予約が取れず、やむなく花巻空港近くのルートインさんに。
たまにはこういうのもありかな、という感じでした。
夕食は、翌日の「五感で楽しむ光太郎ライフ」打ち合わせを兼ね、共催に入られているやつかの森LLCの皆さんと、市内の和食店で。
その席上、というか会食開始前、「こんなものが出てきました」と、見せられたのがこちら。
光太郎に山小屋の土地を提供した旧太田村の顔役の一人、駿河重次郎宛の葉書2通です。共に差し出し元は「乙女の像」制作のため借りた中野区の貸しアトリエ。保存運動が起きている場所です。
1通目は昭和28年(1953)10月11日。
青森へ行つたかへりに山へまゐるつもりでしたが、青森でいろいろな会に出るので疲れるでせうから、今度は帰途山へ寄らずに直ぐ東京にかへり、一旦休んでから又あらためて十一月に山へまゐることにいたしますので、その時お目にかかるのをたのしみに思ひます、
「青森」云々は10月21日に行われた、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式参加を指します。「山」は太田村山口地区。除幕式後、25日に帰京した光太郎は、11月25日から12月5日、太田村に帰りましたが、半分はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のロケのためでした。映画には駿河夫妻も出演しています。
太田村から帰京したあとで投函された2通目ではその映画についても言及。
お餅と白いんげんとたくさんいただきありがたく存じました。
これでお正月のお雑煮も出来ました。東京は此頃たいへんあたたかです。山口ではもう雪になつた事でせう。
此間の映画はまだ見ませんがよくとれて居るとききました。
同じ昭和28年(1953)12月25日付けです。
この頃、光太郎は宿痾の肺結核が悪化。そこで厳冬期には中野の貸しアトリエで、それ以外は太田村の山小屋で、と二重生活を目論んでいたようなのですが、もはや健康状態が山での暮らしに耐えられる状態ではなく、結局、太田村に帰ったのはこの時が最後となりました。
見せられた際には「新発見かも」と思ったのですが、帰りましてから調べたところ、2通とも既に『高村光太郎全集』に収録済みでした。貴重なものであることには変わりありませんが。
それから、ソースが不明なのですが、何かの雑誌の切り抜き。表は管理を任されていた光太郎の山小屋内で撮られた駿河の写真。
光太郎もそうでしたが、古武士のような風格ですね。
裏は山小屋近くに昭和33年(1958)に除幕された光太郎詩「雪白く積めり」碑。山小屋近くの山口小学校の児童が碑を取り囲んでいます。おそらく竣工間もない頃と思われます。ことによると現在地に設置する前なんじゃないかとも思えます。
すべて駿河の令孫のご所蔵。貴重なものを拝見できました。
この後、ホテルに帰り、翌朝は「五感で楽しむ光太郎ライフ」の前に、以外とホテルに近かったので、花巻農業高校さんへ。
宮沢賢治の羅須地人協会の建物が移築されています。
この像、以前に見た時には作者名を見落としていたのですが、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たり、智恵子の故郷・福島二本松に2体の智恵子像を作られた故・橋本堅太郎氏の作です。不思議な縁を感じました。
そして在来線東北本線花巻駅前のなはんプラザさんへ。この後、昨日のブログに続きます。
明日はさらに遡って、花巻到着前に立ち寄った仙台をレポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
おハガキ忝く拝見、「至上律」のは随分ひどい印刷でやれやれと思ひました。あの屋根の中に村長さんの家もあります。うしろの山の三ツ目の山には熊がゐます。
昭和22年(1947)12月31日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎65歳
上記の高村光太郎記念館テーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」で展示されているスケッチ「太田村山口部落 鉛筆淡彩素描」に関してです。この当時のカラー印刷のクオリティはまだまだでした。それもあって、光太郎は生前には智恵子の紙絵の画集としての出版は承諾しませんでした。