1泊2日の東北行を終え、昨夜、千葉の自宅兼事務所に帰りました。レポートいたします。時系列に逆行し、昨日行われ、メインの目的だった岩手花巻でのイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」参加の件から。

会場は在来線東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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主催は花巻市の太田地区振興会さん。太田地区というのは光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村です。

同じ太田地区振興会さん主催の光太郎関係イベントのうち、昨年2月に開催された、宮沢賢治実弟清六の令孫にして株式会社林風舎代表取締役・宮沢和樹氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」もこちらの会場でした。
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満員御礼でした。ありがたし。見知った顔もたくさん。

今回は3組の方々のご発表がメイン。先に教育関係で、地元の学校さんによる光太郎顕彰の取り組み。その後で環境保護の観点から、特に光太郎が7年間暮らした旧太田村の自然について。当方はコメンテーター的な役割でした。
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まずは市立太田小学校校長の藤田聖子先生による「光太郎先生と太田小のまなび」。
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光太郎が7年間暮らした山小屋の近くにあり、児童や先生方と深く交流した山口小学校は、もともと光太郎移住時には太田小学校山口分教場。その後、周辺に開拓地が広がって児童数が増加したことから、昭和23年(1948)に山口小学校として独立しました。その際に光太郎は「正直親切」という校訓や詩「お祝いの言葉」、直筆の「山口小学校」という看板などを贈りました。また、同校の学芸会や運動会、卒業式などに招かれたり、PTAの会合等で講話を行ったりもしましたし、楽器や講堂の幔幕、幻灯機などの寄附も行いました。

光太郎歿後には山小屋敷地内で開催されるようになった「高村祭」で、児童たちが光太郎から贈られた楽器を使って演奏を披露したりもしていました。しかし同校は昭和45年(1970)に廃校となり、再び太田小学校さんに統合。以来、太田小学校さんでは山口小学校の精神を受け継いで、高村祭への参加なども続けてこられました。下は平成30年(2018)の第61回高村祭です。
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ところが高村祭はコロナ禍前の令和元年(2019)に行われた第62回以後、途絶しています。再開のめどは立っていません。いろいろ大人の事情もあるようで……。

しかし、太田小さんでは各学年とも教育活動の一環として、光太郎顕彰への取り組みは継続して行って下さっていました。1、2年生は生活科で、3~6年生は総合的な学習の時間での活動が中心だそうですが、それ以外にも様々な学校行事等で。山荘周辺の清掃等も行って下さっているそうで、頭が下がりました。
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上はかつて光太郎が山口小学校の学芸会に、サンタクロースのコスプレで乱入したエピソードの再現。サンタ役の児童さんは、下記の写真に写っている当時の児童のお孫さんだそうで、それを聞いて、うるっと来てしまいました(笑)。
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他にも「朗読朝会」という催しがあるそうで、児童の皆さんが光太郎詩を群読。その映像も流されました。群読はかつての高村祭で楽器演奏と共に行われていまして、その灯は途切れていないんだと、こちらでもうるっと来てしまいました。

続いて、花巻南高校さん。賢治の最愛の妹・トシの母校にして、トシ自身も教壇に立った花巻高等女学校の後身です。そちらの文芸部の生徒さんと、家庭クラブの生徒さんによるご発表。

文芸部さんは、これまでの活動のご報告や光太郎詩の朗読。
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家庭クラブさんは、何と、「智恵子のエプロン」を再現して下さいました。

そもそもは昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と吉田幾世」が始まりでした。吉田は盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校さん)を創設した人物で、「友の会」は雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部。同校は同誌主宰の羽仁吉一・もと子夫妻が創設した自由学園の精神を受け継ぐ学校でした。

当方、同展の関連行事としての市民講座を仰せつかり、そこで、『婦人之友』と光太郎について改めて調査。その結果、同誌の第18巻第7号(大正13年=1924 7月)の記事を見つけました。たまたま駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れた同誌記者が、智恵子がまとっていたエプロンを「面白い」と、写真入りで紹介した記事です。

型紙まで載っていましたので、講座の際に紹介しつつ、「誰か作ってくれませんかね?」とつぶやいたところ(自分では絶対に作れませんので(笑))、講座を聴きにいらしていた文芸部さんから家庭クラブさんに話が伝わり、実際に作って下さったというわけです。素晴らしい。
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会場の皆さんも、「おお」という感じでした。

のちほど改めて撮らせていただきました。
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素材は酒袋(さかぶくろ)。日本酒を造る際に使われるもので、茶色いのは柿渋が塗られているためです。最近は帆布のように、これを使ったトートバッグなどもひそかに人気のようです。智恵子は実家が造り酒屋でしたから、酒袋をいち早く身の回りの素材に取り入れたというわけでしょう。また、『婦人之友』の記述通りに上部の縁取りには古代更紗。かなり忠実に再現して下さり、舌を巻きました。
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発表の中では、右上画像で智恵子が締めている帯も更紗っぽい、というお話でした。「へー」という感じでした。
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ぜひともこのエプロン、世に広めていただきたいものだと思います。

休憩を挟み、最後のご発表は岩手県環境アドバイザー・望月達也氏。題して「奇跡の里山・山口山」。
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「山口」は光太郎が暮らした山小屋のあるあたりの字(あざ)名で、光太郎詩などにも「山口山」の語は頻出します。当方、漠然と「山口地区の山」程度の意味だと思い込んでいたのですが、さにあらず。ちゃんと「山口山」という山があるそうで、これは存じませんでした。
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上記航空写真の左上部分一帯でしょうか。何の変哲もない里山だと思い込んでいましたが、望月氏曰く「日本中探してもこんな原生的な森は少ないと思う」。
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特に植物の種類がとんでもないそうで。
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単に種類だけでなく、巨木も数多く。
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さらには動物。
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クマタカの生息地だというのも存じませんでした。今度行く時には空にも注意してみます。それから、ここでは紹介されていませんが、リスやキツネ、タヌキもいます。ちなみに当方、上記航空写真の中央あたりの場所で、レンタカーを運転中、道端からシカが飛び出してきたことがあり、驚きました。高村祭からの帰りで、その年は光太郎詩碑前で花巻農高鹿踊り部さんの演舞があり、それに誘われてきたのかな? などと思ったことを覚えております。

休憩時間には望月氏撮影のビデオも上演されました。
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こうした自然が破壊され、旧太田村山口地区を訪れる人々が、「光太郎が書いた詩のとおりじゃないぞ」ということにならないようにと願わざるを得ませんでした。

3組の発表の後は、ランチタイム。
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ガレットとデリのお店TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当。こちらは令和3年(2021)に、紫波町の店舗で「GOOD LIFE TABLE 高村光太郎をたべよう」というイベントを開催して下さったお店です。
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そば粉のパンケーキは光太郎もよく作って食べていた一品です。

今回、共催に入られていたやつかの森LLCさんによるメニュー等解説。
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美味しく頂きました。

最後の最後は、参加者の方による感想発表、当方のコメント。とにかくいつも言っていることですが、光太郎の生きざまや業績を正しく受けとめ、こういう人がいたんだ、と、次の世代へと橋渡しをしていって欲しいというお願いを致しました。そうした意味では、今回、学校さん2校の取り組みで、若い皆さんにもバトンが繋げられていることを知り、有り難かったのですが。

さらに、ついでというと何ですが、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存についてもお話をさせていただき、署名もお願いいたしました。多くの方がご協力くださり、有り難く存じました。

終了後、会場にいらしていた、生前の光太郎をご存じの方ともお話ができました。宮沢賢治記念館の初代館長も務められた故・照井謹二郎氏が昭和22年(1947)に立ち上げ、第一回公演は光太郎の山小屋前の野外で行い、以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続た児童劇団「賢治子供の会」の団員だった女性です。たぶん左下の画像にも写っていると思われます。「優しいおじいさんだった」などと貴重なお話を伺えました。
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会場片付け終了後、すぐ近くの林風舎さんへ。ちょうど宮沢和樹氏もいらっしゃいましたので、久闊を叙し、帰途に就きました。

というわけで、実に有意義なイベントでした。お骨折り下さった皆様方の、さらなるご活躍を祈念いたします。

明日以降、時系列を遡ってレポートを続けます。

【折々のことば・光太郎】

点字抜粋詩集を作り終られた由、随分大変なお仕事であつた事と思ひます。小生もいろいろの仕事があるため、おたよりするのも遅れました。お約束の「花のひらくやうに」といふ詩をうつして同封しました。


昭和22年(1947)12月29日 照井登久子宛書簡より 光太郎65歳

照井登久子は、「賢治子供の会」主宰の謹二郎の妻。夫妻で「賢治子供の会」を運営していました。また、点字の普及活動等にも取り組んでおり、光太郎詩を点訳してほうぼうに寄贈したり、光太郎自身に贈ったりもしていました。それらの表紙を光太郎が揮毫することもありました。

この頃まで光太郎は点字についての知識がほとんど無かったようで、人一倍指先の感覚が鋭敏だった光太郎(ガラスの鏡板を撫でて凹凸を感知したといいます)、非常に興味をひかれたようです。