3件ご紹介します。
まず、智恵子の故郷・福島の地方紙『福島民報』さん、6月2日(日)の一面コラム。
かの『日本百名山』で安達太良山も選出し、今回の『福島民報』さん同様「樹下の二人」(大正12年=1923)や「あどけない話」(昭和3年=1928)を引用してくれた深田久弥。地元の人々との交流もひとかたならぬものがあったのですね。
続いては、『山陰中央新報』さん、6月1日(土)の掲載分。
智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』。発刊は明治44年(1911)9月でしたが、発起人会は6月1日だったそうですが、あまりその日付は意識していませんでした。
ちなみに会場は「東京の駒込」とありますが、当時の本郷区駒込林町の物集和子邸。跡地(現在はマンション)には文京区教委による「青鞜社発祥の地」の案内板が建っています。和子の父は国文学者・物集高見でした。現在は駒込というより千駄木です。JRの駒込駅からはそこそこ離れています。山手線だと日暮里駅や西日暮里駅の方が近い感じです。かつての森鷗外邸・観潮楼(現・文京区立森鷗外記念館)はすぐ目の前、光太郎智恵子の愛の巣のアトリエ兼住居も、翌年、指呼の距離に竣工します。
発起人は5人。らいてう、物集、木内錠子、保持研子、中野初子。おそらくこの席上では智恵子に表紙絵を依頼することは決まっていたのだと思われます。
最後に埼玉県東松山市の広報誌『広報ひがしまつやま』今月号、市民の皆さんの投稿文芸欄。
短歌の部の二首目、「主夫として家事に勤しむ連翹忌歩行器の妻の後ろを歩む」。「連翹忌」の語を入れて下さいました。ありがたし。
同市は亡くなった元教育長の田口弘氏が光太郎と交流があり、さらにそこに氏と意気投合した高田博厚がからんで、光太郎関連のもろもろが同市に残されていますので、「連翹忌」の語も意外と自然に出てくるのではないかと思われます。それでも「「連翹忌」って何?」という方のために選者氏が「連翹忌は四月二日の高村光太郎の命日」と解説して下さいました。
よく書いていますが、「「連翹忌」って何?」程度ならともかく「高村光太郎って誰?」という世の中にならないよう、活動を続けていきたいものだとあらためて思っておりますので、ご協力よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
暗愚は暗愚なりに書きたいものを書く外ありません。
この年発表した、自らの生涯を振り返り、戦争責任を省察する連作詩「暗愚小伝」が念頭に置かれています。何だかんだ言いながら結局筆を折ると言うことをしなかった光太郎、つくづくクリエイティブな人間だったんだな、と思います。
まず、智恵子の故郷・福島の地方紙『福島民報』さん、6月2日(日)の一面コラム。
「日本百名山」の出版に先立つ1960(昭和35)年の晩秋、著者の深田久弥さんは安達太良山に登る。万葉集や高村光太郎の詩にうたわれる文学性に憧れていた。岳温泉の食堂の2代目で安達高山岳部OBの佐藤龍一郎さんと、後に郡山市長を務める藤森英二さんの青年2人が案内した▼中腹のくろがね小屋で温泉に漬かって1泊すると、翌朝は雪。霧にも包まれた中、的確な先導で登頂を果たす。著書「わが愛する山々」につづられている。今、食堂を守る3代目が店先に立てた看板には、同伴した父の誇らしげな山男姿の写真がある▼父子の絆は二本松の酒蔵にも受け継がれている。蔵元の男性は安達太良山の古名にちなむ酒「甑峯[こしきみね]」を背負い、今年も山開きに参加した。亡くなった先代がぜひ、その名を冠した酒を造りたいと願っていた。先代は明治大山岳部で冒険家の植村直己さんの後輩だった。仕上がった酒の味わいは山好きの思いを映し、「晴れた空のよう」とも評される▼あれが阿多多羅山―と、光太郎は妻智恵子の郷里を慈しんだ。名峰がよこすやまびこは、たくさんの面影を乗せてくる。百名山の中でもひときわ輝く光を放って。安達太良山のほんとの空に。
かの『日本百名山』で安達太良山も選出し、今回の『福島民報』さん同様「樹下の二人」(大正12年=1923)や「あどけない話」(昭和3年=1928)を引用してくれた深田久弥。地元の人々との交流もひとかたならぬものがあったのですね。
続いては、『山陰中央新報』さん、6月1日(土)の掲載分。
▽「青鞜社」設立(1911年)
女性運動家の平塚らいてうら女性5人が東京の駒込で発起人会を開き、文芸集団「青鞜社」を設立した。9月に日本初の女性文芸誌「青鞜」を創刊。
智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』。発刊は明治44年(1911)9月でしたが、発起人会は6月1日だったそうですが、あまりその日付は意識していませんでした。
ちなみに会場は「東京の駒込」とありますが、当時の本郷区駒込林町の物集和子邸。跡地(現在はマンション)には文京区教委による「青鞜社発祥の地」の案内板が建っています。和子の父は国文学者・物集高見でした。現在は駒込というより千駄木です。JRの駒込駅からはそこそこ離れています。山手線だと日暮里駅や西日暮里駅の方が近い感じです。かつての森鷗外邸・観潮楼(現・文京区立森鷗外記念館)はすぐ目の前、光太郎智恵子の愛の巣のアトリエ兼住居も、翌年、指呼の距離に竣工します。
発起人は5人。らいてう、物集、木内錠子、保持研子、中野初子。おそらくこの席上では智恵子に表紙絵を依頼することは決まっていたのだと思われます。
最後に埼玉県東松山市の広報誌『広報ひがしまつやま』今月号、市民の皆さんの投稿文芸欄。
短歌の部の二首目、「主夫として家事に勤しむ連翹忌歩行器の妻の後ろを歩む」。「連翹忌」の語を入れて下さいました。ありがたし。
同市は亡くなった元教育長の田口弘氏が光太郎と交流があり、さらにそこに氏と意気投合した高田博厚がからんで、光太郎関連のもろもろが同市に残されていますので、「連翹忌」の語も意外と自然に出てくるのではないかと思われます。それでも「「連翹忌」って何?」という方のために選者氏が「連翹忌は四月二日の高村光太郎の命日」と解説して下さいました。
よく書いていますが、「「連翹忌」って何?」程度ならともかく「高村光太郎って誰?」という世の中にならないよう、活動を続けていきたいものだとあらためて思っておりますので、ご協力よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
暗愚は暗愚なりに書きたいものを書く外ありません。
昭和22年(1947)11月23日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎65歳
この年発表した、自らの生涯を振り返り、戦争責任を省察する連作詩「暗愚小伝」が念頭に置かれています。何だかんだ言いながら結局筆を折ると言うことをしなかった光太郎、つくづくクリエイティブな人間だったんだな、と思います。