3件ご紹介します。
まず天台宗さんとして発行されている『天台ジャーナル』さん。檀信徒さんなど向けの月刊機関紙的なもののようで、今月号です。連載コラムと思われるコーナーに光太郎の言葉をメインで紹介していただきました。
「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」元ネタは欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)の『スバル』に発表した評論「緑色の太陽」です。
前年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された画家・山脇信徳が描いた印象派風の絵画「停車場の朝」に対し、光太郎と親交の深かった石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」と、けちょんけちょんにけなしました。しかしフランスで印象派やフォービスムなどのポスト印象派に実際に触れてきた光太郎は、「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」とし、作品は作者それぞれの感性によって作られるべきもので、「緑色の太陽」があったっていいじゃないかと山脇を擁護しました。所謂「地方色論争」です。
そんな中で「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」。さらに「どんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。」。
ジャンルは違いますが、思い出すのは作曲家・三善晃のパリ音楽院時代のエピソード。コッテコテのフランス風の曲のつもりで作曲し、どうだ、とばかりに披露すると、「素晴らしい! 何て日本的な曲なんだ!」。そんなもんでしょう。『天台ジャーナル』さんでは、また違った方向に話が進んで行っていますが。
続いて『朝日新聞』さん栃木版、読者の投稿による短歌と俳句欄「歌壇・俳壇」。短歌の方で次の詠が入選していました。那須高原にお住まいの高久佳子さんという方の作。
『智恵子抄』初給料で買った本六十年経て回し読みする
60年前というと、昭和39年(1964)。その頃流通していた『智恵子抄』といえば、草野心平編になる新潮文庫版もありましたが、わざわざ「初給料で」ということは、函入り布装の龍星閣版でしょう。
昭和16年(1941)刊行のオリジナルは白い和紙の表紙で、太平洋戦争の激化に伴う龍星閣休業の昭和19年(1944)第13刷まで確認出来ています。戦後になって昭和25年(1950)に龍星閣が再開し、翌年に復元版としてこの赤い表紙のバージョンが出されました。それ以前に昭和22年(1947)に出た白玉書房版がありましたが、こちらは龍星閣の許諾をきちんと得ずに出されたということで、絶版になっていました。
その後、すったもんだがありましたが、この赤い表紙の復元版は版を重ね、現在でも細々と新刊として販売が続いているようです。
画像は昭和26年(1951)の復元版初版。後のものは函の題字も表紙の布と同じ朱色になり、函の色はもっと黄色っぽくなります。
もう1件、『朝日新聞』さんから。岩手版に不定期連載(?)されている「賢治を語る」、5月18日(土)分です。
《光太郎と賢治の出会いは?》
賢治の生前唯一の詩集「春と修羅」が刊行されたのは1924年。日本を代表する彫刻家だった光太郎は翌年、草野心平に勧められてこの詩集を読み、詩的な世界に感銘を受けます。「注文の多い料理店」も借りて読み、親友の作家にまた貸しするほど入れ込みます。
2人が出会ったのは1926年冬。花巻農学校を退職した賢治が、タイプライターやチェロを学ぶために上京した際、光太郎を訪ねます。突然の来訪だったため、仕事をしていた光太郎が「明日の午後明るいうちに来て下さい」と言うと、賢治は「また来ます」とそのまま帰っていったようです。賢治は再来せず、1933年に死去したため、2人が出会ったのはその一度きりでした。
《死語、光太郎は賢治の全集を出します。》
賢治が亡くなった翌年、東京・新宿で追悼会が開かれ、光太郎も出席します。その際、賢治の弟・清六が持参した、賢治の原稿が入ったトランクの中から、「雨ニモマケズ」が記された小さな黒い手帳が見つかります。
残された原稿の束や手帳を見て心動かされた光太郎や心平の尽力で、賢治全集の刊行が決定し、光太郎はその全集の題字を書いています。
《詩碑「雨ニモマケズ」の字も光太郎です》
1936年秋、花巻に賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建つことになり、光太郎に字が依頼されました。ただ、誰がどこで間違えたのか、詩碑には除幕の段階で計4ヶ所、漏れや誤りがありました。
戦後の1946年、光太郎は訂正を行うため、自ら足場に登って詩碑に筆で挿入・訂正を行い、石工がその場で追刻をしました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったそうです。
《戦中、光太郎は花巻に疎開します。》
1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、花巻の宮沢家に誘われる形で、5月中旬、清六の家に身を寄せます。
ところが、その花巻の家も8月10日の花巻空襲で焼けてしまいます。
その際、空襲を経験した光太郎が、清六に「花巻でも空襲があるかもしれないので、防空壕(ごう)を作り、大切なものを避難させておいた方が良い」と助言していたため賢治の原稿は防空壕の中で、かろうじて焼失を免れました。まさに光太郎の助言のお陰です。
《光太郎はその後も花巻で暮らし続けます。》
約7年間、杉皮ぶきの屋根の3畳半の山小屋で独りで暮らし続けます。零下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔に雪がかかるような厳しい生活でした。
亡き妻、智恵子の幻を追いながら、善と美に生き抜こうとした。高潔で理想主義的な生活から素晴らしい作品が生まれました。
光太郎の芸術は、第一に彫塑(ちょうそ)、第二に文芸、第三に書と画、と言われますが、無名だった賢治の作品を守り、その存在を広く世の中に伝えた「名プロデューサー」としての仕事は、この国の文学に極めて大きな財産を残した、彼のもう一つの偉大な「芸術」だったと言えるかも知れません。
光太郎と賢治、花巻の縁が端的に記されています。こうした縁から、宮沢家では未だに光太郎の恩を忘れていないという感じで、実に有り難く、恐縮している次第です。
ちなみに記事には紹介がありませんでしたが、花巻高村光太郎記念館さんではテーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中ですし、常設展示では賢治と光太郎の縁的なところにも力を入れています。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
このたびはのびのびと潺湲楼に奄留、思ひがけなき揮毫も果し、デリシヤスの初収穫をも賞味し、お祝いの佳饌にも陪席、又久しぶりにて母にもあひ、まことにめぐまれた一週間でございました。
「潺湲楼(せんかんろう)」は、佐藤邸離れ。旧太田村へ移住する直前の昭和20年(1945)9月から約1ヶ月、光太郎はここで起居し、その後も街に出て来るとここに宿泊しました。
「デリシヤス」は林檎。「久しぶりにて母にあひ」は、大正14年(1925)に歿した母・わかに実際に会ったわけではなく(それではホラーです(笑))、双葉町の松庵寺さんでわかの二十三回忌法要を営んで、会ったような気になったということです。
その際に詠んだ短歌が「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」。おそらくデリシャス種の林檎を供えたのでしょう。この歌を刻んだ歌碑などが、松庵寺さんに残っています。
まず天台宗さんとして発行されている『天台ジャーナル』さん。檀信徒さんなど向けの月刊機関紙的なもののようで、今月号です。連載コラムと思われるコーナーに光太郎の言葉をメインで紹介していただきました。
素晴らしき言葉たち
いくら非日本的でも、日本人が作れば
日本的でないわけには行かないのである。 高村光太郎
詩人であり歌人であるとともに彫刻家、画家であった高村光太郎の言葉です。ですから、芸術分野を指す言葉でしょうが、他の分野にもいえることではないでしょうか。最近、特に話題となっている和食ブームについてもいえると思います。
伝統的な和食でない中国由来の「ラーメン」やインドを発祥とする「カレー」などは、もとは非日本的な食べ物でしたが、今ではすっかり「和食」となっています。発祥の地である中国には日本のラーメン店が、同じくインドでも日本のカレー店が展開されているそうです。
明治維新後、日本は先行する欧米の模倣でなんとか国を造りあげてきました。モノづくりでも「安かろう、悪かろう」といわれる時代を経て、「さすが日本製」といわれるほどになり、品質を誇れるまでになりました。
その過程で、日本独自のアイデアが付け加えられてオリジナルよりも価値が高いものが創造されることになったようです。
例えば温水洗浄便座なども元はアメリカで開発されたものですが、それを進化させたものだといいます。今では、日本中どこでもみられるようになりました。温水洗浄便座以外でも、モノづくりや食べ物の分野をはじめ、日本の創意工夫が活かされた例が多くなりました。
このところ、経済状況が沈滞し国力の伸びがなくなって久しい日本ですが、この国の得意とする「日本的な」創意工夫をもって生き延びていくことが、これまで以上に求められていると思います。
「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」元ネタは欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)の『スバル』に発表した評論「緑色の太陽」です。
前年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された画家・山脇信徳が描いた印象派風の絵画「停車場の朝」に対し、光太郎と親交の深かった石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」と、けちょんけちょんにけなしました。しかしフランスで印象派やフォービスムなどのポスト印象派に実際に触れてきた光太郎は、「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」とし、作品は作者それぞれの感性によって作られるべきもので、「緑色の太陽」があったっていいじゃないかと山脇を擁護しました。所謂「地方色論争」です。
そんな中で「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」。さらに「どんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。」。
ジャンルは違いますが、思い出すのは作曲家・三善晃のパリ音楽院時代のエピソード。コッテコテのフランス風の曲のつもりで作曲し、どうだ、とばかりに披露すると、「素晴らしい! 何て日本的な曲なんだ!」。そんなもんでしょう。『天台ジャーナル』さんでは、また違った方向に話が進んで行っていますが。
続いて『朝日新聞』さん栃木版、読者の投稿による短歌と俳句欄「歌壇・俳壇」。短歌の方で次の詠が入選していました。那須高原にお住まいの高久佳子さんという方の作。
『智恵子抄』初給料で買った本六十年経て回し読みする
60年前というと、昭和39年(1964)。その頃流通していた『智恵子抄』といえば、草野心平編になる新潮文庫版もありましたが、わざわざ「初給料で」ということは、函入り布装の龍星閣版でしょう。
昭和16年(1941)刊行のオリジナルは白い和紙の表紙で、太平洋戦争の激化に伴う龍星閣休業の昭和19年(1944)第13刷まで確認出来ています。戦後になって昭和25年(1950)に龍星閣が再開し、翌年に復元版としてこの赤い表紙のバージョンが出されました。それ以前に昭和22年(1947)に出た白玉書房版がありましたが、こちらは龍星閣の許諾をきちんと得ずに出されたということで、絶版になっていました。
その後、すったもんだがありましたが、この赤い表紙の復元版は版を重ね、現在でも細々と新刊として販売が続いているようです。
画像は昭和26年(1951)の復元版初版。後のものは函の題字も表紙の布と同じ朱色になり、函の色はもっと黄色っぽくなります。
もう1件、『朝日新聞』さんから。岩手版に不定期連載(?)されている「賢治を語る」、5月18日(土)分です。
(賢治を語る)名プロデューサー光太郎 花巻高村光太郎記念会・高橋卓也さん
北東北の詩人・宮沢賢治。その存在を広く世界や後世に知らしめた人物がいる。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956)。「名プロデューサー」としての顔を持つ光太郎と、賢治の関係について、一般財団法人花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん(47)に聞いた。《光太郎と賢治の出会いは?》
賢治の生前唯一の詩集「春と修羅」が刊行されたのは1924年。日本を代表する彫刻家だった光太郎は翌年、草野心平に勧められてこの詩集を読み、詩的な世界に感銘を受けます。「注文の多い料理店」も借りて読み、親友の作家にまた貸しするほど入れ込みます。
2人が出会ったのは1926年冬。花巻農学校を退職した賢治が、タイプライターやチェロを学ぶために上京した際、光太郎を訪ねます。突然の来訪だったため、仕事をしていた光太郎が「明日の午後明るいうちに来て下さい」と言うと、賢治は「また来ます」とそのまま帰っていったようです。賢治は再来せず、1933年に死去したため、2人が出会ったのはその一度きりでした。
《死語、光太郎は賢治の全集を出します。》
賢治が亡くなった翌年、東京・新宿で追悼会が開かれ、光太郎も出席します。その際、賢治の弟・清六が持参した、賢治の原稿が入ったトランクの中から、「雨ニモマケズ」が記された小さな黒い手帳が見つかります。
残された原稿の束や手帳を見て心動かされた光太郎や心平の尽力で、賢治全集の刊行が決定し、光太郎はその全集の題字を書いています。
《詩碑「雨ニモマケズ」の字も光太郎です》
1936年秋、花巻に賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建つことになり、光太郎に字が依頼されました。ただ、誰がどこで間違えたのか、詩碑には除幕の段階で計4ヶ所、漏れや誤りがありました。
戦後の1946年、光太郎は訂正を行うため、自ら足場に登って詩碑に筆で挿入・訂正を行い、石工がその場で追刻をしました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったそうです。
《戦中、光太郎は花巻に疎開します。》
1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、花巻の宮沢家に誘われる形で、5月中旬、清六の家に身を寄せます。
ところが、その花巻の家も8月10日の花巻空襲で焼けてしまいます。
その際、空襲を経験した光太郎が、清六に「花巻でも空襲があるかもしれないので、防空壕(ごう)を作り、大切なものを避難させておいた方が良い」と助言していたため賢治の原稿は防空壕の中で、かろうじて焼失を免れました。まさに光太郎の助言のお陰です。
《光太郎はその後も花巻で暮らし続けます。》
約7年間、杉皮ぶきの屋根の3畳半の山小屋で独りで暮らし続けます。零下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔に雪がかかるような厳しい生活でした。
亡き妻、智恵子の幻を追いながら、善と美に生き抜こうとした。高潔で理想主義的な生活から素晴らしい作品が生まれました。
光太郎の芸術は、第一に彫塑(ちょうそ)、第二に文芸、第三に書と画、と言われますが、無名だった賢治の作品を守り、その存在を広く世の中に伝えた「名プロデューサー」としての仕事は、この国の文学に極めて大きな財産を残した、彼のもう一つの偉大な「芸術」だったと言えるかも知れません。
光太郎と賢治、花巻の縁が端的に記されています。こうした縁から、宮沢家では未だに光太郎の恩を忘れていないという感じで、実に有り難く、恐縮している次第です。
ちなみに記事には紹介がありませんでしたが、花巻高村光太郎記念館さんではテーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中ですし、常設展示では賢治と光太郎の縁的なところにも力を入れています。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
このたびはのびのびと潺湲楼に奄留、思ひがけなき揮毫も果し、デリシヤスの初収穫をも賞味し、お祝いの佳饌にも陪席、又久しぶりにて母にもあひ、まことにめぐまれた一週間でございました。
昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳
「潺湲楼(せんかんろう)」は、佐藤邸離れ。旧太田村へ移住する直前の昭和20年(1945)9月から約1ヶ月、光太郎はここで起居し、その後も街に出て来るとここに宿泊しました。
「デリシヤス」は林檎。「久しぶりにて母にあひ」は、大正14年(1925)に歿した母・わかに実際に会ったわけではなく(それではホラーです(笑))、双葉町の松庵寺さんでわかの二十三回忌法要を営んで、会ったような気になったということです。
その際に詠んだ短歌が「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」。おそらくデリシャス種の林檎を供えたのでしょう。この歌を刻んだ歌碑などが、松庵寺さんに残っています。