5月18日(土)、翌日の二本松市での智恵子生誕祭が午前9時開会と早めだったこともあり、郡山市に宿泊しました。そこでこの日は少しゆっくりめに千葉の自宅兼事務所を出、寄り道しながらの行程でした。

立ち寄り先は田村郡小野町の「ふるさと文化の館」さん。
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こちらの一角に、同町出身の作詞家・丘灯至夫を顕彰する丘灯至夫記念館が含まれています。
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丘灯至夫の代表作は、舟木一夫さんが歌った遠藤実作曲「高校三年生」。それ以外にも、令和2年(2020)に放映された朝ドラ「エール」で効果的に使われた共に古関裕而作曲の「長崎の鐘」や「高原列車は行く」、さらにはアニソンで「ハクション大魔王」、「みなしごハッチ」などの作詞も手がけるなど、幅広く活躍しました。

そして昭和39年(1964)には、二代目コロムビア・ローズさん歌唱の「智恵子抄」。
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安達太良山が謳い込まれ、二本松市ではソウルソングとして防災無線の正午のチャイムにも採用されています。5月19日(日)にもちょうど光太郎詩碑のある鞍石山で聞きました。

記念館には「智恵子抄」に関わる展示も為されていて、平成25年(2013)に一度お邪魔いたしました。

今回は、今年、丘灯至夫の伝記漫画が出版されたということで、そちらにも「智恵子抄」に関わる部分があるだろうと思い、それをゲット出来ないかと考えての訪問でした。

小野町の広報誌『広報おのまち』今月号の記事。
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伝記漫画は、B&G財団さんの助成を受けて刊行。同じシリーズで昨年、岡山県赤磐市さんで、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子のそれが刊行されています。B&Gさん、広く全国で「ふるさとゆかりの偉人マンガ」シリーズの助成を行っています。

丘灯至夫の伝記漫画に関して、先月出た『福島民報』さんの記事。

丘灯至夫さんの伝記漫画完成 故郷の福島県小野町でお披露目 「高原列車は行く」「高校三年生」など作詞

 福島県小野町の名誉町民で作詞家の丘灯至夫さん(1917〈大正6〉年~2009〈平成21〉年)の伝記漫画が完成し、町が27日に町内でお披露目した。「高原列車は行く」「高校三年生」などの国民的ヒット曲を世に送り出した人生が描かれており、町民の郷土愛を育むために活用される。
 漫画は「小さな巨人」のタイトルでB6判100ページ。幼少期は病弱だった丘さんが新聞記者となり、詩人の西條八十さんや作曲家の古関裕而さん(福島市出身)らと出会いながら作詞家として活躍していく姿を伝える。小野町の豊かな自然も描かれている。
 町民らでつくる製作実行委員会が構成を考え、シナリオを高見沢功さん(猪苗代町)、作画を吉川むつみさん(郡山市)が担当した。3500冊を作り、全戸に配布するほか、町の図書館にも配置。小中学生の授業で教材として活用し、郷土の将来を担う人材育成に役立てる。秋には作詞コンクールを計画している。
 B&G財団(本部・東京都)の「ふるさとゆかりの偉人マンガ製作と活用事業」に採択され、費用の一部について補助を受けた。同財団のホームページで漫画を無料公開し、全国の人に見てもらう。
 27日は丘さんの記念館を併設する町ふるさと文化の館でお披露目式が行われ、村上昭正町長や丘さんの長男西山謹司さん(千葉県)らがテープカットした。西山さんは「私が知らない父の姿も描かれている。漫画になって里帰りでき、父も光栄だと思う」と謝意を述べた。漫画の完成を記念し、館内で8月25日まで丘さんの特別記念展が開かれている。
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「小野町ふるさと文化の館」内には町立図書館さんもあり、そちらに置いてありまして、拝読。予想通り「智恵子抄」に関する部分がありました。しかも、これは予想外でしたが、当会の祖・草野心平とのからみがそこにありました。それは後述します。

「よっしゃ」と思い、「これ、販売はしてますか?」ところが、答は「NO」。「では、コピー取れますか?」するとこちらも「NO」。残念ですが、いたしかたありますまい。8月頃にB&G財団さんのサイトで公開が為されるそうですので、その頃またご紹介します。

代わりに、というわけではありませんが、こんな書籍を無料で下さいました。『あの青春(ゆめ) この詩(うた) 丘灯至夫生誕100周年』。A4判100ページ程の豪華なものです。
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平成28年(2016)の刊行でしたので、以前に足を運んだ際にはこれはありませんでした。

こちらにも「智恵子抄」関連の記述。
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二本松出身の大山忠作画伯(女優・一色采子さんのお父さま)の描いた安達太良山の絵に、丘が歌詞を書き込んだ作品、こちらは記念館に展示されています。

下半分は、「智恵子抄」リリースの翌年、昭和40年(1965)に行われた「丘灯至夫・郷土訪問リサイタル」関係。二代目コロムビア・ローズさんもいらしたとのこと。写真に写っていますね。

丘灯至夫とローズさん、前年には二本松も訪れています。「智恵子抄」がそこそこヒットしたのを受けて日本コロムビアが発行したソノシートブック「智恵子のふるさとを訪ねて」。全26頁で、ソノシートが4枚付いています。
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この中に……
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ちなみにローズさんは智恵子生家、二本松霞ヶ城の光太郎詩碑、安達太良山などもご訪問。
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ところで上半分に戻りますが、「智恵子抄」リリースに際しては、すんなり行かなかったという記述があります。「高村光太郎を顕彰する会から作品化の許可がなかなかおりず、世に出るまでに大変な苦労がありました。しかし詩人・草野心平の助言などにより、『智恵子抄』(二代目コロムビア・ローズ:歌)は昭和39年に世に送り出されたのです」。

『あの青春(ゆめ) この詩(うた) 丘灯至夫生誕100周年』後半には丘自身の回想も。平成20年(2008)、福島ペンクラブの会合の中でで行われた座談会的な催しの一節、聞き手は元NHKアナの宇田川清江さんです。

酒飲まされて作った「智恵子抄」

宇田川 先生、「智恵子抄」は二代目コロムビア・ローズですね。この曲はレコード会社から言われたというより、先生がご自分で書きたいと思われた歌、と伺いましたが…。
丘 これは二本松の歌ですから高村光太郎の詩集「智恵子抄」から頂いてこしらえたものです。実は二本松には「高村会」というのがあって、高村先生の銅像とか作品の碑とかを守っていこうという会なんです。その会から「智恵子抄を歌にするのは罷りならん」と言われたんです。高名な詩集をモチーフにした歌謡曲をぜひ出したい、という思いが強かったんです。そしたら高村会の中に先輩詩人の草野心平さんがいたんです。そこで心平さんに頼みに行ったら「まず、酒を飲め」という。この酒がただものじゃないんです。口に入れると火の出るような、燃えるような酒。「これを一杯飲んだら許してやる」ってんで飲みました。酒を飲んで作詩したのはこれが初めてです。そして「この詩ならいいだろう」と許しを受けました。二代目コロムビア・ローズさんもよくて、これが紅白歌合戦にも出ました。


「酒」はたぶんウオッカだと思うのですが、むちゃくちゃですね、心平(笑)。「1日に摂取していた平均アルコール量は、一般の約3倍」だそうでしたから、これ以外にも、酔いつぶれた心平が目を覚ますと駒込林町の光太郎アトリエのベッドで、ベッドの下にはゲロを吐いた跡がきれいに拭き取られ、光太郎はアトリエのソファーで冬なのに毛布一枚で寝ていたとか、心平が一時期勤めていた『東亜解放』(光太郎が斡旋?)の取材で秋田に行った際、早くも1日目で取材費を呑み尽くし、光太郎に電報為替で金を送ってもらったとか、中原中也・心平がタッグを組んで、太宰治・壇一雄のコンビと居酒屋で大乱闘を演じたとか、酒にまつわるエピソードには事欠きませんが。

二本松の高村会というのは誤りで、おそらく東京の高村光太郎記念会のことでしょう。理事長は光太郎実弟の豊周、事務局長は当会顧問であらせられた北川太一先生、心平もメンバーでした。このころ記念会では、花巻の「一億の号泣」詩碑の問題「智恵子抄裁判」のゴタゴタなどで、神経を尖らせていました。

ところで丘作詞の「智恵子抄」。つい先週『サンケイスポーツ』さんに載った記事に記述がありました。

美貴じゅん子が新曲発売イベント 来年6月にデビュー30周年パーティー開催

000 演歌歌手、美貴じゅん子(50)が15日、東京・六本木クラップスで新曲「海峡流れ星」の発売イベントを開催した。
 タイトルにちなみ流れ星がデザインされた着物姿で登場し、同曲や「放浪(さすらい)かもめ」など全15曲を熱唱。初めてリクエストコーナーを行い、千葉紘子(79)の「折鶴」や二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を披露して会場を沸かせた。
 2021年に17年ぶりのシングル「土下座」で復帰したことにふれ、「新曲が出せない時期が長くあったので、新曲を出せることには人一倍強い思いがあります」と力を込め、「新曲を出せない時期にお世話になり励ましてくれた方々に少しでも恩返しができるよう頑張ります」と誓った。
 デビュー30周年パーティーを来年6月22日に東京・紀尾井町のホテルニューオータニで開催予定であることも発表し、「女手一つで育ててくれた84歳の母に報告します」と喜んだ。

他紙でも同一イベントは紹介されていましたが、「智恵子抄」に触れられていたのはサンスポさんだけだったようです。

美貴じゅん子さん、先月NHK BSさんでオンエアがあった「新・BS日本のうた」でも「智恵子抄」を歌われました。持ち歌の一つとして下さっているという感じなのでしょうか。ありがたいところです。
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同じく持ち歌にして下さっていた森昌子さんは引退なさり、「智恵子抄」CDもリリースされた「三代目コロムビア・ローズ野村未奈」さんは「コロムビア・ローズ」を返上なさり、本名である「野村美菜」さんに改名され、「智恵子抄」は歌われていないようですし。

先述の通り、二本松市では防災無線の正午のチャイムは「智恵子抄」ですが、それ以外の部分でも、さまざまな人間ドラマの詰まった「智恵子抄」、歌い継がれていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

そしていはゆる「詩」からの脱走はますます意識的に烈しくなるでせう。いはゆる「詩」をますますふみにじるでせう。それが別個の詩を生むか生まないか、それはずつと後の人が知るでせう。


昭和22年(1947)9月29日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎65歳

昨日も同じ書簡の中の別の部分を取りあげましたが、この年雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」20篇に対し、直接光太郎に書簡を送って「詩的情調に欠けている」的な批判をした美術評論家・水澤への返信の一節です。

元々、そういう意識が強かったのですが、翌年には詩「おれの詩」で「おれの詩は西欧ポエジイに属さない。/二つの円周は互に切線を描くが、/つひに完くは重らない。」と書き、やや後の昭和25年(1950)には「藤村――有明――白秋――朔太郎――現代詩人、といふ系列とは別個の道を私は歩いてゐます。」(「詩について語らず――編集子への手紙――」昭和25年=1950)とも書いています。

無論、15年戦争中、愚にもつかない翼賛詩を連発してしまったことへの悔恨、そこからどう立て直していけばいいのだろうという意識も込められた発言です。