一昨日、昨日と、一泊二日で福島県に行っておりました。

メインの目的は、智恵子の故郷・二本松市で昨日開催されたイベント。地元で智恵子顕彰にあたられている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」でした。
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昨年もほぼ同一のイベントが行われたのですが、市内、特に智恵子生誕の地の旧安達町エリアを中心に、智恵子ゆかりの場所を見て回るというイベントです。ちなみに今日・5月20日が智恵子の誕生日です。

智恵子生家近くで開会式。
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6月1日(土)オンエア、東北6県向けの「ウイークエンド東北」という番組内で、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存の件、さらに光太郎智恵子顕彰にあたる東北の人々というコンセプトで10分程の放映が行われるそうで、そのロケも入りました。

ちなみに4月2日(火)、当会主催の連翹忌の後、ご案内をお送りしたもののご欠席だった方々などに当日の配布資料等を後日発送したのですが、その中に今回のイベントの案内も同封しましたところ、静岡で文芸同人誌『岩漿』を主宰なさり、光太郎智恵子にも触れた文章を書かれている小山修一氏御夫妻もいらして下さいました。ありがたし。

智恵子生家。
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午前中はよい天気で、「ほんとの空」という感じでした。
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二本松市さんとしては、先月末から「智恵子生誕祭」期間。5月26日(日)までです。土日には紙絵制作のワークショップや通常非公開の生家2階部分の特別公開が行われています。
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一階の座敷を横目に土間を通り抜け、二階へ。階段を上ってすぐ、かつての智恵子の部屋です。
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奥は弟妹の部屋的な。
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生家裏手の智恵子記念館。紙絵の実物展示が5月12日(日)までだったのが少し残念でしたが。
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左の窓に映っているのは、昨秋の「高村智恵子レモン祭」期間中に開催されたワークショップ「みんなで作るシンメトリー展」で来場者の方々が作られた作品だそうです。

その後、夢くらぶさん会員の方々の車輌に分乗、ゆかりの地を巡りました。智恵子母校の油井小学校さん、JR東北本線安達駅前の智恵子像「今 ここから」(故・橋本堅太郎氏遺作)、満福寺さんの智恵子実家・長沼家墓所、生家裏手の鞍石山の詩碑など。
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最後は二本松市街、霞ヶ城。
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敷地内に昭和35年(1960)に建てられた光太郎詩碑。
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遠景には、安達太良山。
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銅板のプレートは三面あり、正面と背後は光太郎自筆を写しています。
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碑陰記的なプレートは、当会の祖・草野心平筆。
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ついでにご紹介しますが、この碑の近くには戊辰戦争で名を馳せた二本松少年隊を顕彰する碑も。
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レリーフ原型は橋本堅太郎氏父君の橋本高昇です。高昇、堅太郎氏父子共々、光太郎の父・光雲の流れをくみます。高昇は二本松出身、堅太郎氏は東京出身でしたが、のちに二本松市名誉市民に認定されました。 

さて、光太郎詩碑前で、参加者による光太郎詩朗読。
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泉下の光太郎智恵子も眼を細めているような気がしました。

この後、この場で昼食のお弁当をいただき、解散。

地味な活動ですが、アップデートしつつ継続していっていただきたいものです。

智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんでは、この後もいろいろとイベント等企画されています。
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また近くなりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

貴下の絶対否定のお言葉をよんでなるほどと思ひましたが、小生はやはり貴下に憫れまれながら死ぬまで詩を書くでせう。詩は、小生内部からの自己爆破に備へる為の安全弁の作用をするので已むを得ません

昭和22年(1947)9月29日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎65歳

水沢は美術評論家。光太郎がこの年雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」20篇に対し、直接光太郎に書簡を送って「詩的情調に欠けている」的な批判をしたようで、それに対する返答の一部です。

安全弁」云々は、遠く明治期の留学帰朝後からの光太郎の持論でした。