岩手盛岡からミニ展示の情報です。
企画展「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」
期 日 : 2024年5月18日(土)~7月21日(日)
会 場 : 岩手県立図書館 岩手県盛岡市盛岡駅西通1-7-1 アイーナ4F
時 間 : 9:00~20:00
休 館 : 5月25日(土)・31日(金)、6月28日(金)
料 金 : 無料
人間にとって身近な動物である牛。古くは塩や海産物を背負って歩いた南部牛、現代ではブランド牛や酪農の取り組みなど、岩手の文化や産業も 牛とともにあゆみを重ねてきました。岩手と牛の関わりについて、所蔵資料で紹介します。
タイトルの「地を往(ゆ)きて走らず」が、光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。
岩手の人
翌昭和24年(1949)元日の『新岩手日報』に掲載されました。
光太郎は自身を牛にたとえることもあり、遠く大正初めの『道程』時代にずばり「牛」という長詩を書きましたし、「岩手の人」より後にも「鈍牛の言葉」(昭和24年=1949)という詩も書きました。「鈍牛」は自分自身です。そこで岩手の人々に感じるシンパシーを「牛」に託して語っているような気もします。
現代でも岩手の皆さん、「岩手の人」を光太郎からの贈り物と考えてらっしゃるようで、今回もそうですが、いろいろなところで使って下さっています。最近では令和3年(2021)に、この年が丑年だったため県として「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を展開、「岩手の人」がキャンペーンソングならぬキャンペーンポエム的な使い方をされました。
また遡れば、花巻北高校さんの庭に建つ高田博厚作の光太郎胸像(昭和51年=1976設置)の台座にも「岩手の人」の一節が刻まれています。
ちなみに「「岩手の人」のモデルは、当時の国分謙吉知事だ」という説があります。国分知事の容貌や業績からの類推と思われますし、実際に光太郎と国分知事は花巻温泉で対談したり、同じ式典でそれぞれスピーチしたりといった交流がありました。しかし、それらは昭和25年(1950)以降のことで、「岩手の人」が書かれた時点で面識があったかどうか不明です。もっとも、面識はなくとも詩のモデルに、ということも無くはありませんが……。
さて、今回の展示、「所蔵資料で紹介」というだけで詳細はよく分かりませんが、光太郎に関わる展示も為されることと思われます。さすがにタイトルだけ借りて終わり、とはなりますまい。
ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
五、六日間雨ばかり降つてゐました。今朝雨やみ曇。畑に水流れ、往来に水あふれ、川音轟々とひびきます。
いわゆるカスリーン台風です。関東地方での被害が大きく、荒川や利根川の堤防が決壊、都内でも葛飾区や江戸川区は全域が水没したそうで、全国で死者1,077人、行方不明者853人。岩手県内でも北上川が氾濫し、南部の一関をはじめ、109人の死亡が確認されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村でも、橋が流されるなどの被害があったそうです。
岩手では翌年にもアイオン台風が大きな被害をもたらし、国分知事、復旧への陣頭指揮を執りました。
岩手の人
岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。
翌昭和24年(1949)元日の『新岩手日報』に掲載されました。
光太郎は自身を牛にたとえることもあり、遠く大正初めの『道程』時代にずばり「牛」という長詩を書きましたし、「岩手の人」より後にも「鈍牛の言葉」(昭和24年=1949)という詩も書きました。「鈍牛」は自分自身です。そこで岩手の人々に感じるシンパシーを「牛」に託して語っているような気もします。
現代でも岩手の皆さん、「岩手の人」を光太郎からの贈り物と考えてらっしゃるようで、今回もそうですが、いろいろなところで使って下さっています。最近では令和3年(2021)に、この年が丑年だったため県として「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を展開、「岩手の人」がキャンペーンソングならぬキャンペーンポエム的な使い方をされました。
また遡れば、花巻北高校さんの庭に建つ高田博厚作の光太郎胸像(昭和51年=1976設置)の台座にも「岩手の人」の一節が刻まれています。
ちなみに「「岩手の人」のモデルは、当時の国分謙吉知事だ」という説があります。国分知事の容貌や業績からの類推と思われますし、実際に光太郎と国分知事は花巻温泉で対談したり、同じ式典でそれぞれスピーチしたりといった交流がありました。しかし、それらは昭和25年(1950)以降のことで、「岩手の人」が書かれた時点で面識があったかどうか不明です。もっとも、面識はなくとも詩のモデルに、ということも無くはありませんが……。
さて、今回の展示、「所蔵資料で紹介」というだけで詳細はよく分かりませんが、光太郎に関わる展示も為されることと思われます。さすがにタイトルだけ借りて終わり、とはなりますまい。
ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
五、六日間雨ばかり降つてゐました。今朝雨やみ曇。畑に水流れ、往来に水あふれ、川音轟々とひびきます。
昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳
いわゆるカスリーン台風です。関東地方での被害が大きく、荒川や利根川の堤防が決壊、都内でも葛飾区や江戸川区は全域が水没したそうで、全国で死者1,077人、行方不明者853人。岩手県内でも北上川が氾濫し、南部の一関をはじめ、109人の死亡が確認されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村でも、橋が流されるなどの被害があったそうです。
岩手では翌年にもアイオン台風が大きな被害をもたらし、国分知事、復旧への陣頭指揮を執りました。