『朝日新聞』さんで、弁護士にして詩人、文芸評論家でもあらせられる中村稔氏が大きく取り上げられました。
「僕がいつも書く詩は寂しいんですよ。どうしたって寂しい。でも一生に一度くらい、誰にでもわかりやすく、おもしろく、楽しく読めるものを書いてみたいと思ったんです」。ドウダンツツジの枯れ枝の間に落ちる、月の光に慰められる老人。お年玉をもらった翌日、駄菓子屋で全て使い切ってしまった少年。互いに思い合いながらもプロポーズできずにいる男女。ミサイルにおびえ、差し込む月の光に気づかないロシアとウクライナの兵士。収録される20編の詩それぞれで登場人物が、生きることの尊さ、恋愛のはかなさと喜び、戦争の不条理さと向き合う。
「これは本当に詩なのか? と自分でも疑問に思っています。小説の筋書きと言われても仕方ない」。これまで詩を書くときには避けてきた言葉もあえて使った。誰しもに分け隔てなく注ぐ月の雫(しずく)を描いた詩は、こう締めくくられる。
〈寝つけない老人に月の雫は、生きよ、と囁くだろう。まだ到来しない/貴い未来に生きよ、と囁くのを、老人は確かに聞くだろう。〉
「『貴い未来に』という説明的、教訓的な表現は、いつもは使いません。でも、この詩に共感してくださる方が多かったですね。自分に向けて書いているところも、もちろんあります」
1月に97歳を迎えた。「僕のいつもの詩が寂しいのは、死が間近いことを自覚しているから。国際情勢を見ていても、あんまり楽しいことはないでしょう」。一方で、「だからこそ貴重な時間、生きている時間をいとおしむ気持ちもある。二つがない交ぜになって生きているんですね。だからこういう楽しい詩もあっていいんじゃないかと思った。今まで書いてきたなかでも愛着のある作品です」。
詩集に加え、宮沢賢治、中原中也、高村光太郎らの評論や、自身の半生を振り返りながら昭和史を見つめた「私の昭和史」といった大部の著作も手がけてきた。だが、本業は弁護士だ。東京・丸の内で弁護士として働きながら「余技に詩や評論を書いてきたんです。詩人であることが本業にプラスになることはありません。中原中也みたいにだらしないと思われたら困るでしょう」。 一見、正反対にあるように思える詩人と弁護士だが、言葉への尽きない関心が生まれる源泉でもあった。「僕は弁護士だから、言葉が定義されている世界を見てきた。言葉に対する明晰(めいせき)さを求めながら、一方で言葉は実に不可解なものだと感じて詩を書いてきた。言葉があわせもつ両面を見てきたから、言葉への関心はずっとあります」
記事では触れられていませんが、中村氏、本業の弁護士として最高裁まで争われた「智恵子抄裁判」に取り組まれました。著作権に関わるものの中で、エポックな凡例として語り継がれています。
その関係もあり、当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは刎頸の交わりでした。連翹忌の集いにご参加下さいましたし、北川先生のご著書の帯に推薦文を寄せられたこともおありでした。
そして光太郎をメインに論じたご著書。ともに青土社さんから平成30年(2018)に『高村光太郎論』、翌年には『高村光太郎の戦後』。どちらも500ページ前後の大著、労作です。その他、エッセイ集や雑誌等での光太郎に関する文章も多数。
もう97歳になられたか、というのがまず驚きでした。そして失礼ながらそのお年で新刊詩集を上梓なさるとは、という驚きも。
ちなみに『日本経済新聞』さんには、かつて「中村稔89歳 燃える執筆意欲」(平成28年=2016)、「中村稔 曇りなく歴史を見つめる」(令和元年=2019)という記事が載りました。それぞれその時点で「そのお年で……」という驚きが込められていましたが、今回、改めて「そのお年で……」ですね。
今回の記事にある詩集『月の雫』はこちら。やはり青土社さんから刊行されています。
【折々のことば・光太郎】
「ロヂン」は明治の頃、先輩が皆ロダンの事をロヂンと発音してゐたので、さう書きました。Rodinの英語読みです。ロヂンといふので時代色が出るわけです。
この年、雑誌『展望』に寄稿した自らの生涯を振り返る連作詩「暗愚小伝」の註解です。仏語で「in」が「アン」となることを知らなかった明治期の学生が「Rodin」を英語風に「ロヂン」だと思っていたというくだり。「彫刻一途」という一篇の一節です。
バカだな、と思うかも知れませんが、同じ理屈で『青い鳥』の「Maeterlinck」は「メテルランク」と読まれるべきなのに、未だに日本では「メーテルリンク」で通ってしまっていますね。さすがに「Lupin」は「ルパン」と正しく読まれていますが(笑)。
「これは本当に詩なのか? と自分でも疑問に思っています。小説の筋書きと言われても仕方ない」。これまで詩を書くときには避けてきた言葉もあえて使った。誰しもに分け隔てなく注ぐ月の雫(しずく)を描いた詩は、こう締めくくられる。
〈寝つけない老人に月の雫は、生きよ、と囁くだろう。まだ到来しない/貴い未来に生きよ、と囁くのを、老人は確かに聞くだろう。〉
「『貴い未来に』という説明的、教訓的な表現は、いつもは使いません。でも、この詩に共感してくださる方が多かったですね。自分に向けて書いているところも、もちろんあります」
1月に97歳を迎えた。「僕のいつもの詩が寂しいのは、死が間近いことを自覚しているから。国際情勢を見ていても、あんまり楽しいことはないでしょう」。一方で、「だからこそ貴重な時間、生きている時間をいとおしむ気持ちもある。二つがない交ぜになって生きているんですね。だからこういう楽しい詩もあっていいんじゃないかと思った。今まで書いてきたなかでも愛着のある作品です」。
詩集に加え、宮沢賢治、中原中也、高村光太郎らの評論や、自身の半生を振り返りながら昭和史を見つめた「私の昭和史」といった大部の著作も手がけてきた。だが、本業は弁護士だ。東京・丸の内で弁護士として働きながら「余技に詩や評論を書いてきたんです。詩人であることが本業にプラスになることはありません。中原中也みたいにだらしないと思われたら困るでしょう」。 一見、正反対にあるように思える詩人と弁護士だが、言葉への尽きない関心が生まれる源泉でもあった。「僕は弁護士だから、言葉が定義されている世界を見てきた。言葉に対する明晰(めいせき)さを求めながら、一方で言葉は実に不可解なものだと感じて詩を書いてきた。言葉があわせもつ両面を見てきたから、言葉への関心はずっとあります」
記事では触れられていませんが、中村氏、本業の弁護士として最高裁まで争われた「智恵子抄裁判」に取り組まれました。著作権に関わるものの中で、エポックな凡例として語り継がれています。
その関係もあり、当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは刎頸の交わりでした。連翹忌の集いにご参加下さいましたし、北川先生のご著書の帯に推薦文を寄せられたこともおありでした。
そして光太郎をメインに論じたご著書。ともに青土社さんから平成30年(2018)に『高村光太郎論』、翌年には『高村光太郎の戦後』。どちらも500ページ前後の大著、労作です。その他、エッセイ集や雑誌等での光太郎に関する文章も多数。
もう97歳になられたか、というのがまず驚きでした。そして失礼ながらそのお年で新刊詩集を上梓なさるとは、という驚きも。
ちなみに『日本経済新聞』さんには、かつて「中村稔89歳 燃える執筆意欲」(平成28年=2016)、「中村稔 曇りなく歴史を見つめる」(令和元年=2019)という記事が載りました。それぞれその時点で「そのお年で……」という驚きが込められていましたが、今回、改めて「そのお年で……」ですね。
今回の記事にある詩集『月の雫』はこちら。やはり青土社さんから刊行されています。
【折々のことば・光太郎】
「ロヂン」は明治の頃、先輩が皆ロダンの事をロヂンと発音してゐたので、さう書きました。Rodinの英語読みです。ロヂンといふので時代色が出るわけです。
昭和22年(1947)9月8日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳
この年、雑誌『展望』に寄稿した自らの生涯を振り返る連作詩「暗愚小伝」の註解です。仏語で「in」が「アン」となることを知らなかった明治期の学生が「Rodin」を英語風に「ロヂン」だと思っていたというくだり。「彫刻一途」という一篇の一節です。
いつのことだか忘れたが、
私と話すつもりで来た啄木も、
彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに
すつかりあきらめて帰つていつた。
日露戦争の勝敗よりも
ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた
バカだな、と思うかも知れませんが、同じ理屈で『青い鳥』の「Maeterlinck」は「メテルランク」と読まれるべきなのに、未だに日本では「メーテルリンク」で通ってしまっていますね。さすがに「Lupin」は「ルパン」と正しく読まれていますが(笑)。