本日も新刊紹介です。

じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代

2024年4月25日 森まゆみ著 婦人之友社 定価3,000円+税

 2021~2024年まで雑誌『婦人之友』に好評連載の「羽仁もと子とその時代」が、ついに1冊に。近代女性史に大きな足跡を残したもと子の姿が、明治・大正・昭和の時代の中で、鮮やかに浮かび上がります。
 「じょっぱり」はもと子の故郷・青森では、信じたことをやり通す強さをいう言葉。よいことは必ずできると信じて、多くの人を巻き込みながら突き進んだ、もと子そのものです。
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目次
 まえがき
 第1部 青森の少女、新聞記者になる
  1 八戸に生まれて
  2 上京を追って
  3 自由民権とキリスト教002
  4 明治女学校へ
  5 最初の恋愛、結婚、離婚
  6 女性記者となる
  7 岡山孤児院と西有穆山、そして再婚
  8 『家庭之友』創刊
  9 中産階級の視点
  10 日露戦争と家計簿
  11 次女凉子の死
  12 『婦人之友』への統合
  13 『婦人之友』の船出
  14 明治が終わる
  15 大正デモクラシーと第一次世界大戦
  16 『子供之友』と『新少女』
 第2部 火の玉のように、教育者、事業家へ
  17 自由学園創立
  18 洋服の時代
  19 関東大震災
  20 震災後の救援
  21 読者組合の組織化、著作集発行
  22 消費組合の結成
  23 「友の会」の誕生
  24 ただ一度の外遊
  25 羽仁五郎の受難
  26 木を植える男−羽仁吉一と男子部設立
  27 東北の大凶作とセツルメント
  28 戦争への道
  29 北京生活学校
  30 幼児生活団と生活合理化と
  31 那須農場開拓と戦争の犠牲
  32 敗戦から立ち上がる
  33 引揚援護活動
  34 二人手を携えて
 あとがき

夫・吉一と共に、現代でも続く雑誌『婦人之友』を創刊し、都内に自由学園を創立した羽仁もと子の評伝です。同誌には光太郎・智恵子もたびたび寄稿しましたし、同校を光太郎が訪れたこともありました。
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昨年、花巻高村光太郎記念館さんで企画展「光太郎と吉田幾世」が開催され、いろいろと協力させていただきましたが、盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校さん)を創設した吉田幾世は、自由学園の卒業生で、羽仁夫妻の薫陶を受けた人物でした。

その吉田や光太郎にも言及されています。ただ、二人に関する部分がもうちょっとあってもよかったなという感じではありました。まだ全て読み終わっていませんが、智恵子に関しては記述がないようです。それから、相馬黒光、巌本善治、平塚らいてう、竹久夢二、与謝野晶子ら、光太郎智恵子らと交流のあった人物も数多く登場します。

それにしても、羽仁もと子という人物のバイタリティーはすごいものだな、と、読み進めながら思っております。上記の目次を概観するだけでもそれが窺えるのではないでしょうか。森氏も「あとがき」で、「今まで私ほどよく働く女はいないのではないかと思っていた。しかし本書に取りかかって、羽仁もと子には負けた。」と語られています。

ところで当方、昨年、企画展「光太郎と吉田幾世」の関係で国会図書館さんに出向き、昭和30年代までの『婦人之友』で光太郎智恵子に触れられている記事を全てプリントアウトして参りました。

もと子自身の書いた記事の中に、光太郎の名が書かれているものもありました。第18巻第5号(大正13年=1924 5月)の「身辺雑記」というエッセイです。その年の自由学園の入学式などについて書かれています。抜粋します。

 あくる日のお昼前、また桜の樹の下に見なれない人が来る。素朴に見ゆる和服を着た大きな人――私はそれは高村光太郎さんだと思つた。ほんとにさうだつた。私たちは高村さんの書いて下さるものを心から愛読してゐる。編輯局の人たちから、またいつでも高村さんのことを聞いて、どうか一度学校を見て頂きたいと、早くから希つてゐたから嬉しかつた。
 
また、こんな記事も。昭和20年(1945)4月の第39巻第4号、「編輯室日記」。

四月十七日(火)去る十三日の空襲は石渡荘太郎氏、湯澤三千男氏、佐野、真島、大槻博士、高村光太郎氏など、日頃婦人之友や自由学園に御縁故の深い方々のお家をも焼いてしまつた。せめて季節の青いものでもお目にかけてお慰めしたいと、南沢の野菜を自転車に積んで、それぞれ手分けして焼け跡をお訪ねする。三月号の表紙に、詩やカツトを描いて下さつた高村光太郎氏には、丁度印刷出来たばかりの婦人之友をもお届けしたが、大変喜ばれてブロツクの一片に次のやうな御言葉をかいて下さつた。
 「わざわざお使でお見舞下され忝く存じます、今焼跡でお話しいたして居るところです、御丹精の青いもの筍など何よりありがたく、又雑誌も拝受、お礼までいただき恐縮しました。乱筆のまゝ 四月十七日 高村光太郎」

 
光太郎、アトリエ兼住居が全焼ということで、手元に紙もなく、何とまあ焼け跡に落ちていたコンクリートブロックの破片に上記の文面を書いて(筆記用具は持っていたのか、借りたかしたのでしょう)、使者に託しました。この現物が現残していたら不謹慎かも知れませんが実に面白いと思います。

光太郎の同誌への確認できている寄稿等は、以下の通り。
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これだけ多くの寄稿をした雑誌は他にあまりありません。また、明治末から最晩年までの長期にわたってというのも異例です。

智恵子の寄稿は3件確認出来ています。
智恵子
これ以外にも、光太郎智恵子、それぞれに取材した記事や、吉田幾世による盛岡生活学校のレポートに光太郎が登場する記事などもあります。

光太郎の最後の寄稿は、昭和30年(1955)、羽仁吉一の逝去に伴う詩「追悼」。こちらは婦人之友社さんで制作したCDに女優・柳川慶子さんの朗読が収められています。
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森まゆみ氏曰く、「この簡潔な詩句になにも継ぎ足す言葉はない。

それにしても、森氏、戦時中のもと子についても剔抉されています。光太郎にしてもそうでしたが、もと子もかなりの翼賛活動を行いました。森氏曰く「私は伝記作者として、対象人物の過去の間違いを看過、もしくは隠蔽することはできない」。正論ですね。

そうでない伝記作者の何と多いことか。あまっさえ、翼賛活動を擁護するどころか「これぞ皇国臣民の鑑」とばかりに大絶賛している歴史修正主義者、レイシストの輩が存在するのが現状です。なげかわしい。

何はともあれ『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間「婦人之友」の盛岡生活学校の生徒さんや先生方が四十人ばかり来ましたので、分教場で話をしました。画家の深沢紅子さんも先生の一人として来ました。バタとパンをもらつたのでよろこびました。


昭和22年(1947)8月14日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

引率していた一人が吉田幾世です。吉田はこの日の模様のレポートを『婦人之友』に寄稿しました。

盛岡の吉田幾世さんから友の会生活学校の一行四十名が稗貫郡太田村に高村光太郎氏をお訪ねした時の様子を知らせてきた。「高村先生は若い人に会うのは愉快だと、茅ぶきの分教場に心から嬉しそうに迎えて下さり、詩のことから建築、服飾とお話は深く広くひろがり、いつしか一同の心は果しない美の世界へ引込まれてゆきました。食後若い人達の未熟なコーラスを音楽飢餓がいやされると喜んできいて下さいました。疎開先の花卷で戦災にあわれた先生を、山から一本づつ木を伐り出して来て、山の根に小さな家を建てて村へ迎え入れた部落民の素朴な真心ととけ合つたこの頃の先生の御生活、電灯もなくラジオもなく、新聞も一日おくれしか手に入らないとのことです。その中で『婦人之友はいつも端から端まで大へん面白く読んでいます。料理や園芸の記事も全く参考になりますよ』といつておられたのもうれしいことでした。」(第41巻第10号 昭和22年=1947 10月)