関西でこぢんまりと刊行されている雑誌です。
特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」
夜学舎の最新刊です。「自分のことば」を獲得するとはどういうことか、について考えます。
『B面の歌を聞け』4号
2024年4月20日 夜学舎 定価990円(税込み)特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」
夜学舎の最新刊です。「自分のことば」を獲得するとはどういうことか、について考えます。
目次
はじめに 太田明日香
インタビュー
創作と言葉 趣味でも仕事でもなく小説を書いて雑誌を作ること
権力とことば 自分の言葉を獲得する 舟之川聖子
はじめに 太田明日香
インタビュー
創作と言葉 趣味でも仕事でもなく小説を書いて雑誌を作ること
るるるるんメンバー(かとうひろみ、UNI、3月クララ)
アートとことば アートを通じて社会をほぐす 谷澤紗和子さんのアートと「ことば」 谷澤紗和子
特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」権力とことば 自分の言葉を獲得する 舟之川聖子
子どもとことば 「あらない」の神秘 鼈宮谷千尋
文化とことば 幼い密輸 むらたえりか
ことばのDIY B面の言語学習 石井晋平(イム書房)
声、体ということば 俺は言葉に毒されていたか 服部健太郎(ほんの入り口)
シリーズ 地方で本を作るとは?
持続可能な個人出版のあり方を模索して (大阪府・犬と街灯店主 谷脇栗太)
編集後記・次号予告
智恵子紙絵作品へのオマージュともなっている切り絵を継続的に制作されている現代アート作家・谷澤紗和子氏へのインタビューが7ページにわたって掲載されています。
単純に「智恵子の紙絵っていいな」からのインスパイアではなく、ジェンダー論にからめての制作を続けられている谷澤氏のひと言ひと言、重みがあります。
また、谷澤氏は文字を切り絵にするという手法も採られているため、「言葉」と「アート」との往復、相互作用といった部分にも話が及びます。というか、そのあたりがメインなのでしょう。おそらくインタビュアーは同誌を編集・発行なさっている太田明日香氏と思われますが、単なる情報伝達の手段や、物書きが生きるたつきとして扱う道具にとどまらない、「言葉」の可能性といった部分を考えられてのもののようです。他の記事でもそういう側面が見て取れました。
光太郎も造型作家でありながら「言葉」の問題については、人一倍敏感でした。「言葉」を論じた評論やエッセイも数多く書き残し、それらはいちいち頷けるものです。詩にしても、鋭敏すぎる感性を詩として発露せざるを得ないという感じで書かれ続けたのでしょう。元々の詩作の出発点が、「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって、彫刻が「多分に文学的になり、何かを物語」ることを避けるため、もしくは「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」だったわけで(「 」内は評論『自分と詩との関係』昭和15年=1940)。
似たようなことは繰り返し述べました。
青年期になるに及んでやみ難い抒情感の強い衝動に駆られて、自分の作る彫刻が皆文学的になる傾向があつた。ひどく浪曼派風の作ばかりで一時はむしろ其を自分で喜んでゐたが、後彫刻の真義に気づいて来ると、今度は逆に我ながら自分の文学過剰の彫刻に嫌悪を感じ、どうかして其から逃れようと思ひ悩んだ。それで自分の文学的要求の方は直接に言葉によつて表現し、彫刻の方面では造形的純粋性を保つやうに為ようと努めた。いはば歌は彫刻を護る一種の安全弁の役目を果した。(「詩の勉強」昭和14年=1939)
自分の中には彫刻的分子と同時に文学的分子も相当にあつて、これが内面をこんぐらからせるので、彫刻的分子の純粋性をまもる必要から、すでに学生時代から、文学的分子のはけ口を文学方面にみつけて、文学で彫刻を毒さないようにつとめてきた。『明星』時代に短歌を書いたり、その後詩を書きつづけてきたのもそういういわれがあつたのである。(「自伝」昭和30年=1955)
しかし、特に晩年になって「書」への傾倒を深めた光太郎、自らは意識していなかったのかも知れませんが、詩によって言葉のあやなす美と、彫刻によって純粋造型とを究めようとしてきた道程を、「書」によって融合させようとしていたとも考えられます。
書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。(「書の深淵」昭和28年=1953)
そう考えると、谷澤氏の一連の作品にも、そういう要素があるのかもしれません。
何はともあれ、『B面の歌を聞け』4号、ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
今年は母の廿三回忌の由、花巻でも法要を営みたいので戒名をおしらせ願ひたし。忘れました。
光太郎の母・わかは大正14年(1925)、大腸カタルのため亡くなりました。行年68歳でした。
髙村家では、これを機に代々の墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。
シリーズ 地方で本を作るとは?
持続可能な個人出版のあり方を模索して (大阪府・犬と街灯店主 谷脇栗太)
編集後記・次号予告
智恵子紙絵作品へのオマージュともなっている切り絵を継続的に制作されている現代アート作家・谷澤紗和子氏へのインタビューが7ページにわたって掲載されています。
単純に「智恵子の紙絵っていいな」からのインスパイアではなく、ジェンダー論にからめての制作を続けられている谷澤氏のひと言ひと言、重みがあります。
また、谷澤氏は文字を切り絵にするという手法も採られているため、「言葉」と「アート」との往復、相互作用といった部分にも話が及びます。というか、そのあたりがメインなのでしょう。おそらくインタビュアーは同誌を編集・発行なさっている太田明日香氏と思われますが、単なる情報伝達の手段や、物書きが生きるたつきとして扱う道具にとどまらない、「言葉」の可能性といった部分を考えられてのもののようです。他の記事でもそういう側面が見て取れました。
光太郎も造型作家でありながら「言葉」の問題については、人一倍敏感でした。「言葉」を論じた評論やエッセイも数多く書き残し、それらはいちいち頷けるものです。詩にしても、鋭敏すぎる感性を詩として発露せざるを得ないという感じで書かれ続けたのでしょう。元々の詩作の出発点が、「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって、彫刻が「多分に文学的になり、何かを物語」ることを避けるため、もしくは「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」だったわけで(「 」内は評論『自分と詩との関係』昭和15年=1940)。
似たようなことは繰り返し述べました。
青年期になるに及んでやみ難い抒情感の強い衝動に駆られて、自分の作る彫刻が皆文学的になる傾向があつた。ひどく浪曼派風の作ばかりで一時はむしろ其を自分で喜んでゐたが、後彫刻の真義に気づいて来ると、今度は逆に我ながら自分の文学過剰の彫刻に嫌悪を感じ、どうかして其から逃れようと思ひ悩んだ。それで自分の文学的要求の方は直接に言葉によつて表現し、彫刻の方面では造形的純粋性を保つやうに為ようと努めた。いはば歌は彫刻を護る一種の安全弁の役目を果した。(「詩の勉強」昭和14年=1939)
自分の中には彫刻的分子と同時に文学的分子も相当にあつて、これが内面をこんぐらからせるので、彫刻的分子の純粋性をまもる必要から、すでに学生時代から、文学的分子のはけ口を文学方面にみつけて、文学で彫刻を毒さないようにつとめてきた。『明星』時代に短歌を書いたり、その後詩を書きつづけてきたのもそういういわれがあつたのである。(「自伝」昭和30年=1955)
しかし、特に晩年になって「書」への傾倒を深めた光太郎、自らは意識していなかったのかも知れませんが、詩によって言葉のあやなす美と、彫刻によって純粋造型とを究めようとしてきた道程を、「書」によって融合させようとしていたとも考えられます。
書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。(「書の深淵」昭和28年=1953)
そう考えると、谷澤氏の一連の作品にも、そういう要素があるのかもしれません。
何はともあれ、『B面の歌を聞け』4号、ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
今年は母の廿三回忌の由、花巻でも法要を営みたいので戒名をおしらせ願ひたし。忘れました。
昭和22年(1947)9月8日
高村豊周宛書簡より 光太郎65歳
高村豊周宛書簡より 光太郎65歳
光太郎の母・わかは大正14年(1925)、大腸カタルのため亡くなりました。行年68歳でした。
髙村家では、これを機に代々の墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。