状況をわかりやすくするために、まずは『盛岡経済新聞』さん記事から。
同展詳細はこちら。
盛岡市先人記念館(盛岡市本宮)で現在、収蔵資料展「没後五十年 池田龍甫(りゅうほ)展」が開かれている。
池田龍甫は盛岡出身の日本画家で、今年没後50年を迎える。大正から昭和にかけて女性や花鳥図を描いて活躍したほか、1948(昭和23)年に開校した岩手県立美術工芸学校の設立に尽力し、同校の教授も務めるなど後進の指導を行っていた。
同館で池田龍甫のみを取り上げる展示は今回が初めてだという。学芸員の中浜聖美さんは「龍甫は岩手の美術専門教育に長く携わってきた人と言える。美しい作品と共に、指導者としての側面も知ってもらいたい」と話す。
展示は龍甫の若い頃から晩年までを順に追って紹介。「歌垣人々」や「天女図」「初夏」などの作品のほか、スケッチブックや下絵などの遺品が並ぶ。スケッチの中には、明治時代に盛岡で発生した洪水の被害を描いたものもある。東京美術学校卒業後、盛岡に戻った龍甫について解説するパネルでは、日本画を学ぶ女学生たちを指導し、そのうちの一人が後の深沢紅子であることを紹介している。
展示後半では指導者としての龍甫や岩手の画家との交流に焦点を当て、岩手県立美術工芸学校の教授を命じる辞令や、盛岡短期大学美術工芸科長を命じる辞令、高村光太郎を囲む食事会への案内状、市民の集まりで毛筆画の講師をしていた時の案内状と絵の手本などを展示する。
晩年、龍甫は「岩手山とキジを描きたい」と話していたという。展示作品には山とキジを描いた未完の作品もある。併せて、日本画画材の質の低下についても嘆いていたという。展示資料の一つには龍甫が使った画材道具類がある。「日本画に使う岩絵の具は鉱物を砕いて作るのでとても高価。材料についても紹介しているので、観察してみて」と中浜さん。「最後まで絵筆を捨てることなく、生涯を日本画にささげた人。岩手最後の本格的な日本画家と呼ばれた龍甫の作品や歩みをじっくり見てもらいたい」と呼びかける。
開館時間は9時~17時(入館は16時30分まで)。月曜・最終火曜休館(月曜が祝日の場合は翌平日)。入館料は一般=300円、高校生=200円、小・中学生=100円。6月2日まで。
同展詳細はこちら。
期 日 : 2024年3月23日(土)~6月2日(日)
会 場 : 盛岡市先人記念館 盛岡市本宮字蛇屋敷2-2
時 間 : 9時から17時
休 館 : 毎週月曜日(月曜日が祝休日の場合は翌平日) 毎月最終火曜日
料 金 : 個人:一般300円、高校生200円、小・中学生100円
団体:一般240円、高校生160円、小・中学生80円(30人以上~)
令和6年(2024)に没後50年を迎える日本画家・池田龍甫の絵画作品や遺品を展示します。
令和6年(2024)に没後50年を迎える日本画家・池田龍甫の絵画作品や遺品を展示します。
『盛岡経済新聞』さんの記事にあるとおり、池田は岩手県立美術工芸学校開校時(昭和23年=1948)の教授でした。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が出て来ませんが。
校長の森口多里は、この名簿に光太郎の名も名誉教授として載せたく、説得に当たりましたが、光太郎は固辞。戦犯の公職追放が為されていた時期ですので、光太郎は自らにその措置を課したのだと思われます。
その代わり、同校には何度も足を運び、式典の際に祝辞を述べたり、生徒対象に講演を行ったり、作品展を見たりしています。また、式典に呼ばれても参加できない時は、祝辞を書いて郵送したり、祝電を送ったりもしました。そちらは生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)以後も続きました。
盛岡市先人記念館さんには、そうした光太郎からの祝電、校長の森口宛の書簡などが保存されています。その中に、記事にある「高村光太郎を囲む食事会への案内状」も。
発起人として名が記されているのはやはり美術工芸校の教授だった画家・深沢省三、彫刻家・堀江赳、そして盛岡市でオームラ洋裁学校を経営していた大村次信の三人でした。
ちなみに会食会の名称は「豚の頭を食う会」。昭和25年(1950)1月18日(水)、盛岡の菊屋旅館(現在の北ホテルさん)での開催でした。詳細はこちら。
旧華族・南部の殿様の末裔やら市長やら警察署長、文学方面で佐伯郁郎やら、森荘已池やら、錚々たるメンバーが集まったそうですが、美術工芸校の教授・助教授陣も。そこで、池田もここに写っているのではと思われます。
池田の絵画がメインの展覧会ですが、こうした背景もあるんだよ、ということで、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
いつもお願するもの健康上不可欠のものですが暑熱の季節には郵送不可能ではないかと存じ御遠慮いたして居りました。郵送する方法があるものでせうか。溶けて流れ出しはしないでせうか。其辺の事おきかせ願へれば幸甚に存じます。
佐々木はやはり美術工芸校で洋画科の講師を務めていた画家です。「いつもお願するもの」はバターでした。盛岡ではこうした光太郎のグルメぶりが知られていたため、「豚の頭を食う会」の開催につながった部分もあるようです。
その代わり、同校には何度も足を運び、式典の際に祝辞を述べたり、生徒対象に講演を行ったり、作品展を見たりしています。また、式典に呼ばれても参加できない時は、祝辞を書いて郵送したり、祝電を送ったりもしました。そちらは生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)以後も続きました。
盛岡市先人記念館さんには、そうした光太郎からの祝電、校長の森口宛の書簡などが保存されています。その中に、記事にある「高村光太郎を囲む食事会への案内状」も。
発起人として名が記されているのはやはり美術工芸校の教授だった画家・深沢省三、彫刻家・堀江赳、そして盛岡市でオームラ洋裁学校を経営していた大村次信の三人でした。
ちなみに会食会の名称は「豚の頭を食う会」。昭和25年(1950)1月18日(水)、盛岡の菊屋旅館(現在の北ホテルさん)での開催でした。詳細はこちら。
旧華族・南部の殿様の末裔やら市長やら警察署長、文学方面で佐伯郁郎やら、森荘已池やら、錚々たるメンバーが集まったそうですが、美術工芸校の教授・助教授陣も。そこで、池田もここに写っているのではと思われます。
池田の絵画がメインの展覧会ですが、こうした背景もあるんだよ、ということで、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
いつもお願するもの健康上不可欠のものですが暑熱の季節には郵送不可能ではないかと存じ御遠慮いたして居りました。郵送する方法があるものでせうか。溶けて流れ出しはしないでせうか。其辺の事おきかせ願へれば幸甚に存じます。
昭和22年(1947)7月21日 佐々木一郎宛書簡より 光太郎65歳
佐々木はやはり美術工芸校で洋画科の講師を務めていた画家です。「いつもお願するもの」はバターでした。盛岡ではこうした光太郎のグルメぶりが知られていたため、「豚の頭を食う会」の開催につながった部分もあるようです。