いわき市立草野心平記念文学館名誉館長の粟津則雄氏が亡くなりました。

『いわき民報』さん。

粟津則雄さん死去 ランボー研究の第一人者 草野心平記念文学館の初代館長も

000 フランスの詩人ランボーの研究などで知られる文芸評論家・仏文学者で、市立草野心平記念文学館の初代館長を務め、その後も名誉館長として事業運営の相談を受けるなど、小川出身の詩人草野心平を通じ、いわき市の文化発展に多大な功績を残してきた、粟津則雄(あわづ・のりお)さんが、心筋梗塞のため東京都練馬区の施設で19日に死去した。
 96歳。葬儀は近親者などで行い、喪主は弟庸雄(つねお)さんが務めた。粟津さんの著作集を刊行している、思潮社(本社・東京都)が後日、しのぶ会を催す予定。
 1927(昭和2)年8月15日、現在の愛知県西尾市生まれ。東京大文学部フランス文学科を卒業後、学習院大で講師を務める傍ら、57年6月の総合芸術誌「ユリイカ」に評論「ボードレールの近代性」を寄稿して注目を集めた。
 1960年刊行のフランス文学全集第12巻(東西五月社版)では、ランボーの「地獄の一季節」そのほかを初めて訳した。ランボーの翻訳と研究の第一人者として名をはせ、長篇評論の第1巻「少年ランボオ」(思潮社)、「ランボオ全詩」(同)など多くの著書を残した。
 また1970年に第8回藤村記念歴程賞、82年に「正岡子規」(朝日新聞社)で第14回亀井勝一郎賞を受賞。1993(平成5)年には紫綬褒章を受章し、2010年、83歳で刊行した「粟津則雄著作集」(第1次全7巻)は第1回鮎川信夫賞特別賞を受賞した。
 市立草野心平記念文学館が開館した1998年7月から館長を務め、2019年4月に名誉館長に就任。同館によると、同館に最後に来館したのは、同年11月3日の記念講演会「草野心平と粟津則雄」だった。

草野心平記念文学館さんの初代館長を務められていた平成15年(2003)、同館で「高村光太郎・智恵子展」を開催して下さいました。
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その際の図録には館長としてのご挨拶の他、「光太郎と心平」と題する論考をご発表。

他にも光太郎がらみの玉稿が複数おありでした。

現在も版を重ねている集英社文庫『レモン哀歌 高村光太郎詩集』(平成3年=1991)巻末の「解説――剛直な明治人」。
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他に、雑誌の光太郎特集号等で。

『国文學 解釈と教材の研究』第18巻第14号(學燈社 昭和48年=1973)で「特集 詩的近代の成立 萩原朔太郎と高村光太郎」を組んだ際に、「近代芸術家意識-高村光太郎と萩原朔太郎」をご寄稿。

『みづゑ』第856号(美術出版社 昭和51年=1976)の「没後20年記念 高村光太郎 その芸術+智恵子の紙絵」という特集では「高村光太郎の矛盾と超克:ある近代日本精神の道程」。
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『歴程』第282号(歴程社 昭和57年=1982)の「特集 高村光太郎生誕百年」には「「道程」寸感」。

いずれも光太郎へのリスペクト溢れるものでした。

それから間接的な関わりですが、詩人の宮静枝が昭和27年(1952)に花巻郊外旧太田村の光太郎を訪問した際の体験をまとめた『詩集 山荘 光太郎残影』(平成4年=1992)が、その年の第33回晩翠賞に選ばれた際、選考委員のお一人が粟津氏でした。
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翌年刊行された『詩集 山荘 117人の感想録』には、宗左近、吉野弘と選考委員三人の連名で出された「選評」が掲載されています。

他にも、氏のご著作の中で光太郎に言及されているものもいくつか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「光太郎詩集」は鎌倉書房から五冊届きました。一冊署名して別封小包でお送りしました。誤植は十三個所ありました。印税を果してよこすかどうかと思つてゐます。知らない本屋はあてになりません。

昭和22年(1947)7月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

鎌倉書房版『高村光太郎詩集』は、戦前戦後通じて初の光太郎選詩集として、草野心平の編集で刊行されました。

豪放な一面のあった心平は、細かいことにはあまりこだわらない部分があり、心平編集の光太郎関連には誤植が目立ちました。光太郎没後の昭和37年(1962)に刊行された光太郎詩集『猛獣篇』は、心平が鉄筆を執り、ガリ版で刷られたものですが、こちらでも誤字が散見されます。心平のことなので「印税を果してよこすかどうか」と光太郎も半ばあきらめていました。

亡くなった粟津氏、心平とは深いご交流がおありで、そのため心平記念文学館初代館長に就任されたわけですが、令和元年(2019)から翌年にかけ、同館ではお二人の交流に的を絞った「草野心平と粟津則雄」という企画展まで開催されました。
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当方、粟津氏から直接伺った話で最も印象に残っているのは、こちらの図録でも触れられていますが、心平からの電話のエピソード。ある日の真夜中に突然心平から粟津氏に電話があり、寝ぼけまなこの粟津氏が電話口に出ると「粟津君、ゴーギャンの赤って、あれ、哀しみの色だね」。氏が「そうですね」と答えると、心平は満足そうに笑って、それでガチャン(笑)。こんな心平とのつきあい、さぞ大変だったのではないかと推察いたしました。

しかし、それを補って余りある「優しさ」的なものを心平から受けられました。氏が飼われていたコリーの「権太」が死ぬと、心平はすぐさま詩「権太」を書いたというエピソードも印象的です。