信州レポート最終回です。
4月22日(月)、宿泊させていただいた「guest room ガーデンあずみ野」さんを後に、愛車を東に向けました。この日は碌山美術館さんでの第114回碌山忌でしたが、午後2時開始の薩摩琵琶の演奏から参加しようと思い、それまでの間は上田市に行く予定を最初から立てておりました。
信州(それから通り道の甲州も)には、光太郎と深く交流のあった人物の作品を多く所蔵・展示している美術館さんや、それらの人物そのものの記念館さん、光太郎ゆかりのスポットなどが数多くあり、碌山美術館さんもその一つですが、同館を訪問する際には他館などにも併せて足を運ぶのがルーティンです。
その一環で、前日には飯田市美術博物館さん内の日夏耿之介記念館さん、柳田國男館さんを訪れましたが、そちらは言わばイレギュラー。思いの外、早く信州に入れてしまったため、予定になかった拝観をしたわけで。
この日は当初、長野市の記念館さん二館を廻ろうと思ったのですが、ちょうど月曜日でどちらも休館日。そこで月曜に開いている館はないかと調べたところ、上田市の「KAITA EPITAPH 残照館」さんがヒットしました。こちらはかつては「信濃デッサン館」という名で、光太郎と交流のあった村山槐多の作品などが展示されていました。その時代に何度か訪れたことがあります。ところが平成30年(2018)に事実上閉館。残念に思っておりました。しかし、令和2年(2020)に「KAITA EPITAPH 残照館」としてリニューアルオープン。再開後に行ったことがありませんでしたし、昨年、映画「火だるま槐多よ」を拝見し、また槐多の絵を見たいという思いが触発されたので、伺おうと考えた次第です。
残照館さんの前に、姉妹館とも云うべき(残照館さんともども窪島誠一郎氏が館長)「戦没画学生慰霊美術館 無言館」さんを先に拝観しました。残照館さんも無言館さんも山裾ですが、無言館さんの方が手前にありますので。
改修工事中でしたが、拝観は可能でした。
入口前の、パレットをかたどったオブジェ。白っぽい点々は桜の花びらです。
刻まれている名は、こちらに作品や遺品等が収蔵されている人々で、そのほとんどが戦没者、そして戦時中に全国の美術学校などに在学していたり、それらの卒業生だったりして戦死した方々です。彫りの感じから、新しく刻まれたんだろうなと思われる名も散見されます。作品の収集や寄贈が今も続いているようです。
作品の収集や同館の開館に協力された、画家の野見山暁治氏が昨年亡くなりましたので、その意味でも感慨深いものがありました。
さて、館内へ。撮影禁止ですのでパンフから。
何度も訪れていますが(最後は令和元年=2019でした)、何度訪れても粛然とさせられます。ありあまる才能や情熱をあたら散らせてしまった若者達の無念さとか、御家族や恋人への思いとか、逆に残された御家族や恋人の故人への思いとか、そういうものが直截に響いてきますので。
以前に訪れた際には気づきませんでしたが(新たに展示されたのでしょうか)、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家・高橋英吉の木彫作品が展示されていまして、驚きました。高橋は東京美術学校彫刻科の出身ですので光太郎の後輩にも当たりますし、それをいえば西洋画科を含め他の光太郎の後輩や、光太郎実弟の豊周の教え子たる同校鋳金科出身だったり在学中だったりの人物の作品も多数。前途洋々の筈だったどれだけ多くの若者が散っていったんだ、と思いますし、その事実を知った光太郎が自らの戦争責任を恥じ、蟄居生活に入らざるを得なかった気持も理解できます。
そんなこんなで拝観終了。ちなみに平日午前中にもかかわらず、他にも拝観されている方が多数いらっしゃいました。良いことです。
こちらは拝観料を出口で支払うシステム。そこで支払いをしつつ係員の方に「残照館さんも開いてますよね?」。ところが「すみません、あちらは冬期休館で、再開が4月27日(土)なんですよ」。「ありゃま」でした。
一応、行くだけ行ってみました。もしかすると再開の準備作業をやっていたりで、こちらの身分を告げればドサクサに紛れて入れてくれるかも(それに似たことがかつて他館でありましたので)と、淡い期待を抱きつつ。
しかし残念ながら人の気配がありませんでした。またの機会にしたいと思いました。
実はここから1㌔ほどの所に亡父の実家がありまして、このあたりは子どもの頃からよく訪れていました。祖父母や伯父らの眠る墓もありますし。今回はその墓参も目的の一つでした。下記は残照館さん前から見た亡父実家・共同墓地方面です。
墓参の前に、残照館さん脇の前山寺さんに参拝。ついでというと何ですが、ここまで来てお参りしないのも何だかな、というわけで。
茅葺きの本堂。
室町時代建立の三重塔。
今回初めて気づきましたが、棟方志功の碑。
南関東ではとっくに終わっているしだれ桜が実にいい感じでした。
その後、祖父母等の墓参。やはり遠いのでこちらも令和元年(2019)以来。「ご存じでしょうが、さきおととし親爺が、ついでに言うならお袋も去年、そっちに行きましたので……」と念じつつ。
そして再び愛車を駆って安曇野に戻り、第114回碌山忌に参列した次第です。以上、長々書きましたが信州レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
特に戦後、若い世代に対する光太郎の支援は目立ちました。戦時中に『週刊少国民』『少国民の友』『少国民文化』『日本少女』『少女の友』などの雑誌におぞましい翼賛詩等を書き殴っていた罪滅ぼしという側面はあったでしょう。
4月22日(月)、宿泊させていただいた「guest room ガーデンあずみ野」さんを後に、愛車を東に向けました。この日は碌山美術館さんでの第114回碌山忌でしたが、午後2時開始の薩摩琵琶の演奏から参加しようと思い、それまでの間は上田市に行く予定を最初から立てておりました。
信州(それから通り道の甲州も)には、光太郎と深く交流のあった人物の作品を多く所蔵・展示している美術館さんや、それらの人物そのものの記念館さん、光太郎ゆかりのスポットなどが数多くあり、碌山美術館さんもその一つですが、同館を訪問する際には他館などにも併せて足を運ぶのがルーティンです。
その一環で、前日には飯田市美術博物館さん内の日夏耿之介記念館さん、柳田國男館さんを訪れましたが、そちらは言わばイレギュラー。思いの外、早く信州に入れてしまったため、予定になかった拝観をしたわけで。
この日は当初、長野市の記念館さん二館を廻ろうと思ったのですが、ちょうど月曜日でどちらも休館日。そこで月曜に開いている館はないかと調べたところ、上田市の「KAITA EPITAPH 残照館」さんがヒットしました。こちらはかつては「信濃デッサン館」という名で、光太郎と交流のあった村山槐多の作品などが展示されていました。その時代に何度か訪れたことがあります。ところが平成30年(2018)に事実上閉館。残念に思っておりました。しかし、令和2年(2020)に「KAITA EPITAPH 残照館」としてリニューアルオープン。再開後に行ったことがありませんでしたし、昨年、映画「火だるま槐多よ」を拝見し、また槐多の絵を見たいという思いが触発されたので、伺おうと考えた次第です。
残照館さんの前に、姉妹館とも云うべき(残照館さんともども窪島誠一郎氏が館長)「戦没画学生慰霊美術館 無言館」さんを先に拝観しました。残照館さんも無言館さんも山裾ですが、無言館さんの方が手前にありますので。
改修工事中でしたが、拝観は可能でした。
入口前の、パレットをかたどったオブジェ。白っぽい点々は桜の花びらです。
刻まれている名は、こちらに作品や遺品等が収蔵されている人々で、そのほとんどが戦没者、そして戦時中に全国の美術学校などに在学していたり、それらの卒業生だったりして戦死した方々です。彫りの感じから、新しく刻まれたんだろうなと思われる名も散見されます。作品の収集や寄贈が今も続いているようです。
さて、館内へ。撮影禁止ですのでパンフから。
何度も訪れていますが(最後は令和元年=2019でした)、何度訪れても粛然とさせられます。ありあまる才能や情熱をあたら散らせてしまった若者達の無念さとか、御家族や恋人への思いとか、逆に残された御家族や恋人の故人への思いとか、そういうものが直截に響いてきますので。
以前に訪れた際には気づきませんでしたが(新たに展示されたのでしょうか)、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家・高橋英吉の木彫作品が展示されていまして、驚きました。高橋は東京美術学校彫刻科の出身ですので光太郎の後輩にも当たりますし、それをいえば西洋画科を含め他の光太郎の後輩や、光太郎実弟の豊周の教え子たる同校鋳金科出身だったり在学中だったりの人物の作品も多数。前途洋々の筈だったどれだけ多くの若者が散っていったんだ、と思いますし、その事実を知った光太郎が自らの戦争責任を恥じ、蟄居生活に入らざるを得なかった気持も理解できます。
そんなこんなで拝観終了。ちなみに平日午前中にもかかわらず、他にも拝観されている方が多数いらっしゃいました。良いことです。
こちらは拝観料を出口で支払うシステム。そこで支払いをしつつ係員の方に「残照館さんも開いてますよね?」。ところが「すみません、あちらは冬期休館で、再開が4月27日(土)なんですよ」。「ありゃま」でした。
一応、行くだけ行ってみました。もしかすると再開の準備作業をやっていたりで、こちらの身分を告げればドサクサに紛れて入れてくれるかも(それに似たことがかつて他館でありましたので)と、淡い期待を抱きつつ。
しかし残念ながら人の気配がありませんでした。またの機会にしたいと思いました。
実はここから1㌔ほどの所に亡父の実家がありまして、このあたりは子どもの頃からよく訪れていました。祖父母や伯父らの眠る墓もありますし。今回はその墓参も目的の一つでした。下記は残照館さん前から見た亡父実家・共同墓地方面です。
墓参の前に、残照館さん脇の前山寺さんに参拝。ついでというと何ですが、ここまで来てお参りしないのも何だかな、というわけで。
茅葺きの本堂。
室町時代建立の三重塔。
今回初めて気づきましたが、棟方志功の碑。
南関東ではとっくに終わっているしだれ桜が実にいい感じでした。
その後、祖父母等の墓参。やはり遠いのでこちらも令和元年(2019)以来。「ご存じでしょうが、さきおととし親爺が、ついでに言うならお袋も去年、そっちに行きましたので……」と念じつつ。
そして再び愛車を駆って安曇野に戻り、第114回碌山忌に参列した次第です。以上、長々書きましたが信州レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
小生は青年が好きです。青年のムキな気持は愛すべきです。
昭和22年(1947)7月3日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳
美術学校彫刻科の後輩達が、学校改革のために校長に進言してくれという手紙を寄越したそうで、その顛末を語った後に添えられたひと言です。結局いろいろ差し障りがあって進言は実現しなかったようですが。
特に戦後、若い世代に対する光太郎の支援は目立ちました。戦時中に『週刊少国民』『少国民の友』『少国民文化』『日本少女』『少女の友』などの雑誌におぞましい翼賛詩等を書き殴っていた罪滅ぼしという側面はあったでしょう。