4月21日(日)、22日(月)と、愛車を駆って一泊二日で信州に行っておりましたが、メインの目的は安曇野市の碌山美術館さんで開催の「第114回碌山忌」および関連行事としての「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」への参加でした。

「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」が4月21日(日)の午後1:30から。休日の中央高速下り線、特に首都高から抜けた後しばらくの片側二車線区間は行楽等の皆さんで非常に混みますし、事故渋滞等も怖いので(一度、事故渋滞の影響で片道6時間以上かかったことがありました)早めに千葉の自宅兼事務所を出発しました。

そのおかげでスイスイ行けてしまい、そのままだとやけに早く着いてしまう状況に。そこで当初予定にはなかったのですが、寄り道していくことにしました。中央道岡谷ジャンクションで安曇野方面の長野道に入らず、そのまま直進し飯田市へ。

飯田市美術博物館さん内に、日夏耿之介記念館さんが併設されており、一度行ってみたいと思っていました。

日夏耿之介は、明治23年(1890)、現在の飯田市出身の詩人です。光太郎より7歳年下で、深い交流はなかったものの、おそらく直接の面識はあったと思われます。

筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には、日夏の名が2回。

まず大正13年(1924)3月1日付の、雑誌『婦人之友』編集部にいた龍田秀吉宛書簡。同誌の読者投稿詩欄の選者をお願いしたいという龍田からの依頼を断る内容です。抜粋します。

詩の選といふ事は余程厄介な事の上に兎に角感じやすい若い魂から出たものをあれこれと取捨するやうな仕事はおよそ私などには向かないのです。それのみならず私は一種の野蛮人ですから自分の趣味なり傾向なりがさういふ巣の中の小鳥のやうなやさしいものの上に何等かの意味ではたらきかけるやうな冒涜の結果がありでもしたらといふ事もおそれます。とにかく女性の詩の選を私にさせるのは世の中で不つり合の頂上でせう。(略)どうか私に私らしくない事をさせないで下さい。 その詩のやさしさに私も心ひかれる西條さんが渡欧の為め選をやめられるのは本当に適任者を失ふ事です。しかし川路柳虹氏も居られるし、又日夏耿之介氏のやうな立派な詩人も居られます。

それまで選者を務めていた西条八十が渡欧するため退任、その後釜というわけですが、光太郎は固辞し、代わりに川路柳虹や日夏の名を挙げています(実際に誰が後任になったのかまでは未だ調べていませんが)。それだけ日夏を高く評価していたことがしのばれます。

ちなみに光太郎、この後、昭和14年(1939)から同16年(1941)にかけては『新女苑』、同17年(1942)から18年(1943)の『職場の光』で投稿詩の選者を務めました。これらの際には断り切れなかったということでしょう。

他にも昭和14年(1939)に書かれた「詩の勉強」というエッセイで、やはり日夏を賞めています。

私は概して時代の老大家よりも真摯な青年層の方から良い教訓を受ける。其頃も日本詩壇の老大家とは殆ど没交渉だつたが、青年詩人からは多くの刺激をうけた。葉舟、犀星、朔太郎、耿之介、柳虹等の諸氏は常に尊敬してゐた。

「其頃」は大正初め頃をさします。「老大家」はおそらく北村透谷やら島崎藤村やら土井晩翠やらの一世代前の人々でしょう。

『高村光太郎全集』に日夏の名が出て来るのはこの2箇所だけですが、おそらく詩話会などの詩人の会合等で光太郎と日夏が顔を合わせる機会はいろいろあったと思われます。実際、昭和17年(1942)の第一回大東亜文学者大会には、光太郎、日夏共に出席しています。

2024.6 追記 『高村光太郎全集』未収録の光太郎の文章を見つけました。日夏の『英吉利浪曼象徴詩風』(昭和15年=1940)の書評でした。掲載誌は『ふらんす』第17巻第6号でした。

b7b6af5e日夏の方で光太郎をどう評していたか、あるいは光太郎がらみの回想等を遺していないか、当方、寡聞にしてよく存じません。ただ、戦後の昭和26年(1951)に日夏の編集で刊行された『近代日本詩集』(弘文堂アテネ文庫)では、14名の詩人の作品を採り、光太郎詩も含まれています。日夏によるその序文に曰く、

透谷以下の十四人をこゝに選出したのは、偶まの十四人であるが、明治の八人大正の六人を厳しく選んで獲たる数であつて、近代情趣の形成の上に正統の抒情詩的寄与をなした新旧十四個のピラアズの作品を、この篇冊にアンソロジイにして抄出したところに編者は史的意味を認めるとなすものである。

まぁ、光太郎は外せないよ、ということでしょう。ちなみに日夏、ちゃっかり自分も十四人に入れていますが、これは本人の意図というより、版元の意向でしょう。

これは日夏の編集ですが、他者の編によるこの手のアンソロジーで、光太郎、日夏の作品が共に掲載されているものは、軽く30冊はあります。

さて、前置きが長くなりましたが、飯田市の日夏耿之介記念館さん。
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一見すると普通の古民家のようです。それもそのはず、「日夏が余生を送った飯田の邸宅を復元したもの」だそうで。
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調べてみましたところ、光太郎が亡くなった昭和31年(1951)から昭和46年(1971)まで暮らした家のようです。元は数百㍍離れた稲荷神社境内に建てられ、平成元年(1989)、この地に復元されたとのこと。内部も民家の体裁を生かし、展示が為されていました。
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光太郎と交流の深かった佐藤春夫からの書簡。
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江戸川乱歩からの来翰も。
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この手の来翰をまとめた書籍が置いてあり、光太郎からのそれはないかと調べましたが、残念ながら見あたらずでした。それをもっとも期待していたのですが……。

しかし、展示されていた古写真を見て、仰天しました。
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日夏の詩集『転身の頌』出版記念会の際に撮られた集合写真だそうで、大正7年(1918)のものです。ちなみに下記のキャプションは「1916」となっていますが、誤りです。
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北原白秋、堀口大学、室生犀星、森口多里など、光太郎と交流のあった面々が写っていますが、光太郎は居ません。ではなぜ驚き桃の木山椒の木(死語ですね(笑))だったかというと、バックに写っている、壁に掛けられた絵のためです。
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光太郎の絵です。

大正2年(1913)、智恵子と共に一夏を過ごした上高地で描かれ、その年の10月、岸田劉生らと興した生活社主催の油絵展覧会に出品された作品群の内の一枚で、その際の題が「焼岳」。下記は『高村光太郎 造型』(春秋社 昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)に載った画像。
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なぜこの写真にこれが? と思ったのですが、キャプションを詳しく見て納得しました。撮影場所が京橋の「鴻ノ巣」となっていたためです。

「鴻ノ巣」は「メイゾン鴻乃巣」。明治43年(1910)、奥田駒蔵という人物が日本橋小網町に開店した西洋料理店です。光太郎も中心メンバーだったパンの会で使われたり、光太郎が絵を描き、伊上凡骨が彫刻刀をふるったメニューが作られたりしました。また、智恵子が創刊号の表紙を描いた『青鞜』社員の尾竹紅吉が「五色の酒」事件を起こしたりした店でした。

同店はその後、日本橋通一丁目、さらに京橋に移転。駒蔵の令孫夫人に当たる奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』所収の年表によれば、京橋への移転は大正5年(1916)、そして大正7年(1918)の項に「1月 日夏耿之介『転身の頌』出版記念会(13日)」「『文章世界』13巻2号に『転身の頌』の会写真掲載」の記述がありました。

しかしその京橋の店も、大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまいました。おそらく懸かっていた光太郎の絵も灰燼に帰したのでしょう。

光太郎自身も昭和21年(1946)、美術史家の土方定一に宛てた書簡で「『霞沢の三本槍』は京橋の『鴻巣』の店にかけて置きましたが大震災の時焼失した事でせう」と書き残しています。絵のタイトルが「焼岳」ではありませんが。

この写真を見られたのは大きな収穫でした。

さて、館外へ。
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左は日夏の句碑「秋風や狗賓の山に骨を埋む」。「狗賓の山」は「天狗の住む山」の意で、飯田市の風越山を指すそうです。右は日夏の肖像レリーフ。「T.NISI」とサインが入っており、光太郎実弟の鋳金人間国宝・豊周の弟子筋にあたり、光太郎詩碑のブロンズパネルを複数鋳造した西大由の作かな、と思ったのですが、詳細不明です。
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追記・小杉放菴記念日光美術館さんの学芸員・迫内祐司氏より、「西常雄の作ではないか」とご教示いただきました。

日夏耿之介記念館さんに隣接して柳田國男館さんもありました。事前に調べていかなかったので、「へー」という感じでした。
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こちらは成城にあった柳田の書斎兼住居をここに移築したものだそうでした。柳田は飯田に居住したことはないそうですが、柳田の養父にして妻の父・柳田直平が旧飯田藩士だった縁とのこと。
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ちなみに光太郎と柳田も、軽く面識がありました。なんと共に同じミスコンの審査員を務めたのです。
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昭和4年(1929)、朝日新聞社主催で行われたミスコン「女性美代表審査会」で、写真審査のみで実施され、最高点を獲得したのはのちに歌人となる齋藤史でした。この年8月7日『アサヒグラフ』に、鏑木清方を除く審査員一同による座談会の筆録が掲載されています。

これ以外に柳田と光太郎が直接会った記録は見あたらないのですが、光太郎はエッセイ等の中で柳田を「柳田先生」と書き、それなりに尊敬していたようです。

愛車に戻ろうと飯田市美術博物館さん敷地内を歩いていると、何やら石碑や胸像。見てやはり驚きました。

石碑は「菱田春草誕生之地」。横山大観の揮毫でした。春草が飯田出身とは存じませんでした。
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胸像は「田中芳男像」。
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田中は明治初期、東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いた人物で、朝ドラ「らんまん」でいとうせいこうさんが演じた里中教授のモデルです。
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光太郎の父・光雲が登場し、田中を主人公とした小説『博覧男爵』を読んで、田中も飯田出身だったことは存じていましたが、失念していました。

そんなこんなで「飯田、どんだけだよ? 恐るべし!」という感想の飯田行でした(笑)。

この後、愛車で北上し、「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」へ。さらに翌日、第114回碌山忌参列の前に、上田まで足を延ばしました。長くなりましたので、そのあたりは明日。

【折々のことば・光太郎】

今日小包拝受、砒酸鉛、展着剤まことに忝く存じました。毎日素手で虫と格闘してゐましたが、これで大に助かります。雨が多くて虫も勢よく中々大変です。

昭和22年(1947)7月12日 真壁仁宛書簡より 光太郎65歳

砒酸鉛」はかつて農薬として使われていましたが、現在は使用禁止。「展着剤」は農薬を作物に付着させるためのもの。いずれも蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村での畑で使いました。

当方、化学はまるでだめなのでよく分かりませんが「砒酸鉛」の「砒」は「砒素」と関係があるのでしょうか。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の死因、最近は皮膚病の治療に使っていた薬剤に含まれていた砒素によるものとする説を、碌山美術館さんでは提唱なさっているようで、気になります。