信州安曇野レポートを続けます。

4月22日(月)は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の忌日「第114回碌山忌」が碌山美術館さんで行われました。前日に関連行事として行われたマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」の際に続き、この日も同館にお邪魔しました。
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午前中は地元の方々などによるコンサートが開催されてましたが、そちらは欠礼。安曇野を離れ、他へ行っておりました。そちらのアリバイ(笑)は明日以降レポートいたします。

午後1時頃、同館に到着。2時から薩摩琵琶奏者・坂麗水氏による演奏があるというので、それは聴いておこう、と。
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PXL_20240421_070610947会場は同館グズベリーハウス。演目は「文覚発心」「文覚と頼朝」そして「耳なし芳一」。

文覚は平安末期から鎌倉初期にかけての僧侶で、源頼朝に平家打倒を焚きつけた人物として知られています。、元々は遠藤盛遠という北面の武士で、懸想していた人妻・袈裟御前を誤って手にかけてしまい、それが元で出家しました。

そのあたりを守衛は自らに重ね合わせ、塑像「文覚」を制作。右画像の一番手前の腕組みしている像です。守衛が像にした人物ということで、文覚がらみが演目に選ばれたようです。

それから一般の方々にもわかりやすい「耳なし芳一」。当方、琵琶の演奏を生で聴くのは2度目でしたが、平成29年(2017)に千葉の柏で初めて聴いた時(「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」という演奏会でした)も「耳なし芳一」でした。

その後、守衛の墓参。館から車で10分程の共同墓地に、智恵子の師でもあった中村不折揮毫の守衛の墓があります。当方は荻原家当主・荻原義重氏の車に乗せていただきました。
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明治43年(1910)4月22日に守衛が新宿中村屋で亡くなった際、光太郎は奈良旅行中でした。知らせを受けて慌てて東京に舞い戻り、さらにこの墓地に駆けつけました。その際にはまだこの墓石は出来ていませんでしたが、それにしても光太郎もここに額づいたかと思うと、毎年のことながら感慨深いものがありました。こうした場合にいつもそうですが、光太郎の代参のつもりで香を手向けました。

館に戻り、午後6時からグズベリーハウスで「碌山を偲ぶ会・サポートメンバーシップ交流会」。当会主催の連翹忌の集い同様、和気あいあいと会食しつつの懇談です。
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毎年そうで、開会宣言の後、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を参会者全員で群読します。光太郎の愛惜の思いが込められた寂しい詩なのですが、おめでたい集まりではないんだという意味では、ふさわしいといえるでしょうか。
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今年はご指名で、マイクを握って音頭を取ることになってしまいました。そこで「じゃあ、題名と一行目のみ、自分がソロで読みますので、二行目から皆さんでご唱和願います」。
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朗読しながら撮りました(笑)。

ご挨拶、ご報告、ご祝辞等。
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左から碌山美術館長・幅谷啓子氏。同館理事も務められている安曇野市長・太田寛氏。荻原家ご当主・荻原義重氏。

その後は料理に舌鼓をうちつつ、歓談。合間にスピーチ。
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当方の隣には琵琶の坂氏が座られ、いろいろお話しさせていただきました。坂氏、鎌倉にお住まいだそうで、当方、「毎年秋には北鎌倉のカフェ兼ギャラリー笛さんにお邪魔してるんですよ」と申し上げたところ、「そのお店、よく知ってます」。驚きました。しかし、以前にも同様のことがあり、笛さんをご存じない鎌倉市民はモグリなのかな、などと思いました(笑)。

それから、ちゃっかり光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動のための署名を皆さんにお書き頂きました(実は今日もその会合があるのですが)。

そんなこんなで8時閉会。片付けの後、愛車を駆って千葉に帰りました。

最後に、同館でゲットした今年のカレンダーをご紹介します。
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A4判横の冊子型、表紙は守衛の絶作「女」です。上下見開きで1ヶ月ごとになっています。

これが発行されたことは気付いていましたが、同館所蔵の光太郎彫刻もあしらわれていまして、その件は存じませんでした。

いきなり1月が「腕」(大正7年=1918)、4月は「十和田裸婦像のための中型試作」、10月で「手」。
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井上涼氏のトークセッションの後でしたか、グズベリーハウス内に貼ってあり、4月ですから「十和田裸婦像のための中型試作」のページで、「ありゃま」。急いでミュージアムショップに行き、「カレンダー、まだありますか?」と訊いたところ、「つい最近、完売してしまいまして……」。残念……。

ところが、「これでよろしければ」と、壁に貼ってあった見本をなんとタダで下さいました。「見本」とシールが貼ってあったり、ピン穴が空いていたりでしたが、全然OKです。ありがたく頂戴して参りました。

さて、明日は碌山美術館さん以外で廻った信州各地のレポートを。

【折々のことば・光太郎】

お茶は先日の玉露はまだありますが大切なのでめつたにいれません。今度のお茶も新鮮でとてもいいです。目がさめるばかりです。

昭和22年(1947)7月9日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

若い頃からお茶好きだった光太郎ですが、蟄居生活を送っていた岩手では茶が栽培されて居らず、戦後の混乱もまだ続いていた折、茶葉の入手には苦労していました。そんな中、光太郎の茶好きを知っていた友人等が送ってくれる茶葉は非常にありがたかったようです。