ほぼほぼ一気読みしました。
2024年4月29日 渡邉茂男著 東京図書出版 定価1,800円+税
敬助没後百年──芸術家は死んでも、またその作品が多く失われても、その画業は私たちの心に残っている。敬助が見た未知の世界に私たちも旅立ちませんか。
関東大震災で不幸にも多くの代表作を失った。
柳敬助は東京美術学校西洋画科に学び、アメリカ・フランス・イギリス留学を経て帰国、人物画に秀でていた。荻原守衛・高村光太郎・岸田劉生・青木繁などと同時代の画家である。
目次
はじめに
関東大震災に遭遇 柳敬助との出会い
関東大震災に遭遇 柳敬助との出会い
第一章 幼少期の柳敬助
敬助の誕生 敬助とその家族 佐藤校長との出会い
第二章 千葉中学校へ
第二章 千葉中学校へ
千葉中学校への進学 堀江正章との出会い
第三章 東京美術学校へ
西洋画科へ 入谷の五人男 美校生活の一コマ アメリカ留学準備
第四章 渡米時代
アメリカ留学 シアトルからセントルイスへ セントルイス万国博覧会
ニューヨークへ ヘンライとの出会い 荻原守衛や高村光太郎らとの出会い
ヨーロッパに向かう敬助
第五章 帰国と様々な出会い
生家へ 新宿中村屋 荻原守衛の死 信州穂高へ 『白樺』派との付き合い
中村屋裏のアトリエ 橋本八重との出会い パンの会 新井奥邃との出会い
第六章 結婚へ――充実した作家活動
八重と結婚へ 光太郎へ智恵子紹介 画家仲間との交流
アトリエ完成(雑司ヶ谷) 高村光太郎と『読書読』 山を愛した敬助
日本女子大学と成瀬仁蔵 西田天香との出会い
アトリエ完成(雑司ヶ谷) 高村光太郎と『読書読』 山を愛した敬助
日本女子大学と成瀬仁蔵 西田天香との出会い
第七章 死に向かいて
充実した作家活動 穂高再訪 最後の旅路 死に向かいて 追悼展に向けて
第八章 おわりに
参考文献
柳敬助年譜
柳敬助年譜
著者プロフィール
渡邉茂男 (ワヤナベシゲオ) (著/文)
1950年生まれ。学習院大学文学部哲学科卒業。卒業後、千葉県内の公立高校教員を務める傍ら、地方史の研究に従事。退職後、君津地方社会教育委員連絡協議会会長を経て、現在君津市文化財審議会委員、千葉県文書館古文書調査員。主な著書・論文に以下のものがある。
『学校が兵舎になったとき』(分担執筆 青木書店 1996年)、『君津市史 通史』(分担執筆 君津市 2001年)、『御明細録―上総久留里藩主黒田氏の記録―』(編修代表 上総古文書の会 2006年)、『房総の仙客 日高誠實』(三省堂書店/創英社 2017年)など。
光太郎と深い交流のあった画家・柳敬助(明14=1881~大12=1923)の評伝です。これまで柳に関するまとまった評伝は無く、いわばパイオニアです。
昨秋、千葉の木更津で開催された「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」で講師を務められた渡邉茂男氏の労作で、同講座を拝聴に伺い、本書出版に向けて最終準備中、的なお話で、心待ちにしておりました。
まず驚いたのが、豊富に図版が挿入されているのですが、古写真等を除き大半がカラー印刷である点。版元の東京図書出版さん、自費出版系の書肆ですが、かなりコストが掛かったのでは? と思いました。やはりカラー画像はインパクトが違います。モノクロ画像だけで油絵画家の色調がどうの、筆致がどうのと論じられてもイメージが湧きにくいのですが、こちらはそのあたりが原色で確認できます。
ただ、柳の作品うちのかなりの点数、しかも優品が、大正12年(1912)の関東大震災で焼失しており、それらは画像があってもモノクロなので、その点が返す返す残念です。
柳が歿したのが震災の年の5月。胃ガンでした。そして9月1日から日本橋三越で遺作展が開催されるはずが、ちょうどその日に震災が起こり、集められた作品群が全て灰燼に帰してしまったわけです。
行年数えで43歳と若くして亡くなり、さらに作品の多くが焼失したことにより、柳の業績は忘れられつつあるのですが、それでも現存する作品も少なからずあり、それらにスポットを当てつつ、柳という人物を後世に伝えていこうという強い意志が感じられる一冊でした。
柳の交流の幅の広さにも、改めて驚かされました。光太郎や荻原守衛をはじめとする美術家はもちろん、井口喜源治、江渡狄嶺、成瀬仁蔵、新井奥邃、西田天香ら思想家的な人々との交流が目立ち、それが柳という人物の大きなバックボーンを形成している、と、渡邉氏。なるほど、と思いました。その点は光太郎にも言えることかな、という気はしましたが。
そして柳の妻・八重は日本女子大学校の一期生。柳ともども明治44年(1911)に光太郎と智恵子を引き合わせる労を執ってくれました。ところが結婚した柳夫妻に対し、光太郎は「この頃付き合い悪くなったじゃん」的な詩「友の妻」を書いています。智恵子との結婚後は、光太郎、さらに光太郎よりも智恵子が、周囲との付き合いが悪くなるのですが(笑)。
それから、荻原守衛。現存する柳の絵画のうち、かなりの点数が信州安曇野の碌山美術館さんに所蔵されています(遺族からの寄贈がほとんどのようです)。柳と守衛との交流の深さを物語っています。明日、明後日と碌山忌等のため同館に行って参りますので、改めて柳作品、しっかり見て来ようと思いました。ちなみに柳の絵は、同館の第1展示棟で光太郎ブロンズとともに並んでいます。
さて、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
昨日師範校の学生さん五人連にて半日遊んでゆきましたが、お弁当にあの胡瓜の生と塩とをさし上げて大変よろこばれました。五人連には坂上のポラーノの広場を案内、皆々大喜びでした。若い人達は元気でうれしくなります。
キュウリとか塩とかは、宮沢家からの差し入れでしょう。「ポラーノの広場」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、現在「智恵子展望台」と呼ばれている高台と思われます。
光太郎と深い交流のあった画家・柳敬助(明14=1881~大12=1923)の評伝です。これまで柳に関するまとまった評伝は無く、いわばパイオニアです。
昨秋、千葉の木更津で開催された「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」で講師を務められた渡邉茂男氏の労作で、同講座を拝聴に伺い、本書出版に向けて最終準備中、的なお話で、心待ちにしておりました。
まず驚いたのが、豊富に図版が挿入されているのですが、古写真等を除き大半がカラー印刷である点。版元の東京図書出版さん、自費出版系の書肆ですが、かなりコストが掛かったのでは? と思いました。やはりカラー画像はインパクトが違います。モノクロ画像だけで油絵画家の色調がどうの、筆致がどうのと論じられてもイメージが湧きにくいのですが、こちらはそのあたりが原色で確認できます。
ただ、柳の作品うちのかなりの点数、しかも優品が、大正12年(1912)の関東大震災で焼失しており、それらは画像があってもモノクロなので、その点が返す返す残念です。
柳が歿したのが震災の年の5月。胃ガンでした。そして9月1日から日本橋三越で遺作展が開催されるはずが、ちょうどその日に震災が起こり、集められた作品群が全て灰燼に帰してしまったわけです。
行年数えで43歳と若くして亡くなり、さらに作品の多くが焼失したことにより、柳の業績は忘れられつつあるのですが、それでも現存する作品も少なからずあり、それらにスポットを当てつつ、柳という人物を後世に伝えていこうという強い意志が感じられる一冊でした。
柳の交流の幅の広さにも、改めて驚かされました。光太郎や荻原守衛をはじめとする美術家はもちろん、井口喜源治、江渡狄嶺、成瀬仁蔵、新井奥邃、西田天香ら思想家的な人々との交流が目立ち、それが柳という人物の大きなバックボーンを形成している、と、渡邉氏。なるほど、と思いました。その点は光太郎にも言えることかな、という気はしましたが。
そして柳の妻・八重は日本女子大学校の一期生。柳ともども明治44年(1911)に光太郎と智恵子を引き合わせる労を執ってくれました。ところが結婚した柳夫妻に対し、光太郎は「この頃付き合い悪くなったじゃん」的な詩「友の妻」を書いています。智恵子との結婚後は、光太郎、さらに光太郎よりも智恵子が、周囲との付き合いが悪くなるのですが(笑)。
それから、荻原守衛。現存する柳の絵画のうち、かなりの点数が信州安曇野の碌山美術館さんに所蔵されています(遺族からの寄贈がほとんどのようです)。柳と守衛との交流の深さを物語っています。明日、明後日と碌山忌等のため同館に行って参りますので、改めて柳作品、しっかり見て来ようと思いました。ちなみに柳の絵は、同館の第1展示棟で光太郎ブロンズとともに並んでいます。
さて、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
昨日師範校の学生さん五人連にて半日遊んでゆきましたが、お弁当にあの胡瓜の生と塩とをさし上げて大変よろこばれました。五人連には坂上のポラーノの広場を案内、皆々大喜びでした。若い人達は元気でうれしくなります。
昭和22年(1947)6月26日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳
キュウリとか塩とかは、宮沢家からの差し入れでしょう。「ポラーノの広場」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、現在「智恵子展望台」と呼ばれている高台と思われます。