つい先日、光太郎第二の故郷花巻ご在住で、少年時代に光太郎と深く交流された浅沼隆氏の訃報を伝えたばかりですが、またお一人、生前の光太郎と深く交流のあった方が花巻で亡くなりました。

宮沢潤子さん――宮沢賢治実弟の故・宮沢清六氏の次女で、賢治から見れば令姪にあたられます。ただ、昭和12年(1937)のお生まれだったとのことで、昭和8年(1933)に歿した賢治には会われていません。

しかし、光太郎とは一時期、同じ屋根の下で生活されていました。昭和20年(1945)4月、本郷区駒込林町のアトリエ兼住居を空襲で失った光太郎は、翌月、賢治の父・政次郎や清六氏らの誘いで、花巻の宮沢家に疎開しました。その際に潤子さんも居住されていたわけです。そこで光太郎のこの年の日記には潤子さんの名も現れます。光太郎滞在中に潤子さんが痲疹(はしか)に罹患され、光太郎が心配していたことが記されています。

それから終戦後、秋になって光太郎が郊外旧太田村に移住すると、光太郎の山小屋を訪ねたこともおありでした。

また、光太郎から潤子さん宛の書簡も遺されています。昭和23年(1948)8月19日付けで、文面は以下の通り。

おみまひのおたよりをいただいてありがたく思ひました。畑で虫にくはれたのがもとらしく鼻の下のまんなかに面疔がでてき困りましたがよい薬を手に入れてつづけてのんでゐるのでもう九分通り退治しました。このはれものは中々すごい勢のものです。もう安心ですからおぢいさまはじめ皆様によろしくお伝へください。

「面疔」は黄色ブドウ球菌などによる炎症で、化膿を伴う大きな腫れ物。8月15日に清六氏に宛てた書簡に面疔になったと書いたところ、数え12歳の潤子さんから御見舞の書簡が届き、それへの返信です。「おぢいさま」は賢治や清六氏の父・政次郎ですね。

さらに潤子さん、「花巻賢治子供の会」のメンバーでした。同会は賢治の教え子の一人、故・照井謹二郎氏、登久子氏ご夫妻が立ち上げた児童劇団で、主に賢治の童話を劇化して上演していました。
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その第一回公演は昭和22年(1947)。光太郎の山小屋の前でした。もともとは光太郎の無聊を慰問する目的もありました。その後、光太郎のアドバイスで本格的に公演をするようになりましたが、年に一度は山小屋近くの山口分教場(のち小学校に昇格)でも公演を行い、光太郎に見てもらっていました。

当方、潤子さんにお会いしたことはおそらく無いのですが、子息で林風舎代表取締役の和樹氏とは昨年、ともに花巻で行われた、公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」、トークリレー「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」などでご一緒させていただいております。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

十五日の日には潤子さん共々路のわるいところを遠くおいで下されどんなに喜んだか知れません その上いろいろいたゞき唯恐縮の外ございません。


昭和22年(1947)6月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

この項、現在は光太郎書簡からほぼ年月日順に「これは」と思う記述を拾っていますが、ちょうど紹介しようと思っていた頃の書簡に潤子さんの名があったので驚きました。

6月15日は日曜日で、「賢治子供の会」の第一回公演の日でした。この日の日記のうち、関連する記述は以下の通り。

十時頃、花巻の子供賢治の会の連中(二十人余)来る。照井氏と同夫人とが引率。宮沢さん夫人も同道、ジユン子さんもゐる。ケイ子さんもゐる。ジユン子さんに水飴をもらふ。宮沢夫人よりみそをもらふ。(略)小屋前で一同田植え連中に向つて唱歌をうたふ。ひる学校にて弁当を宮沢夫人にもらふ。劇、唱歌、朗読等あり。村の少年も集る。二時頃すむ。三時半頃余もかへる。