注文しておいた新刊が届きました。

瀏瀏と研ぐ――職人と芸術家

2024年4月10日 土田昇著 みすず書房 定価4,200円+税

 町の仏師から日本を代表する木彫家、帝室技芸員、東京美術学校教授へと登りつめた高村光雲。巨大な父の息子として二世芸術家の道を定められながら、彫刻家としてよりもむしろ詩人として知られることになる高村光太郎。そして、刀工家に生まれた不世出の大工道具鍛冶、千代鶴是秀。
 明治の近代化とともに芸術家へと脱皮をとげ栄に浴した高村光雲は、いわば無類の製作物を作る職人でありつづけた。その父との相似、相克を経て「芸術家」として生きた光太郎の文章や彫刻作品、そして道具使いのうちに、著者は職人家に相承されてきた技術と道徳の強固な根を見る。
 戦後、岩手の山深い小屋に隠棲した光太郎が是秀に制作を依頼した幻の彫刻刀をめぐって、道具を作る者たち、道具を使って美を生みだす者たちの系譜を描く。
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目次
第一章 職人の世界――火造り再現の旅のはじまり
火起こし / 千代鶴是秀の鍛冶場 / 仕事の領分――冷たい鉄と熱い鉄 / 鋼作り / 地金作り / 鍛接 / 火造り / 山の鍛冶場 / 最後の職人たち――作業感覚に支えられて / 売るためでなく / 「絶滅種」の道具 / 剣錐を造る / 本三枚の刃物の難しさ / 本三枚と格闘する / 出来る時には出来てしまう / 驚異の青年鍛治 / 本三枚の切出小刀の製作仲介 / 作業感触の支配下で

第二章 道具と芸術
不思議を転写した彫刻 / 芸術家とはなにか / 美しいとはなにか / 大工の技術、彫刻家の技術 / 大工の研ぎ、彫刻家の研ぎ / 岐れ道を歩む者たち――千代鶴是秀と高村光太郎 / 千代鶴是秀と明治日本 / 高村光雲と明治日本 / 明日の小刀を瀏瀏と / 高村光雲の彫刻道具 / 仏像作家、森大造と道具 / 特殊鋼の刃物、純炭素鋼の刃物 / 是秀作、左右の印刀――実用本位の刃物 / 津田燿三郎の墨坪 / 道具はどう機能すべきか――森大造と津田燿三郎

第三章 職人的感性と芸術家――高村光雲と光太郎
高村光雲『幕末維新懐古談』との出会い / 『光雲懐古談』想華篇――「省かれてしまった部分の方が面白い」 / 芸術家父子と技法の移譲――岩野勇三と岩野亮介 / 息子がなす無謀――父親と同じではいない / 職人手間、物価の話と、道具の単位 / 世間に知られぬ名人の話 / 無類の制作物を作る「職人」たち――村松梢風『近代名匠傳』 / 職人の道徳――錆びた木彫道具 / 父との相似、相克――息子、光太郎と「のつぽの奴は黙つてゐる」 / 《薄命児》と川縁の地 / 二代目芸術家の洋行 / 帰国と芸術論「緑色の太陽」 / あやうい上手さからの脱却のシミュレーション――「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」 / 鋸の色と切味の間の微妙な交渉 / 鋸の製作 / 健康な道具の色 / 三尺の目と一厘の目 / 職人と社会の問題 / 芸術家と社会の問題、芸術家と戦争――佐藤忠良、西常雄 / 「まだうごかぬ」――高村光太郎と西常雄 / 千代鶴太郎と彫塑の師、横江嘉純 / 息子がみつめた「父の顔」 / 工房の中の芸術家――光太郎による光雲作品の評価 / 木彫地紋――修業の第一歩 / 木彫地紋を彫る小刀 / 小さな木彫作品群――《桃》と《蟬》、光雲の荒彫りの洋犬 / 道具調べと職人道徳 / 後進の彫刻家にとっての高村光太郎 / 十和田湖畔の裸像 / 研ぎという刹那な達成 / 名人大工<江戸熊>の研ぎ / 光太郎の変容、是秀の変容 / 随筆身近なものへの感触の確かさ――「三十年来の常用卓」/ 折りたたみの椅子

第四章 道具を作る、道具を使う――是秀と光太郎
コロナ禍の研ぎ比べ――是秀の二本の叩鑿 / 錆びた彫刻刀――光太郎と是秀の接点たる道具 / 光雲の玄能、光太郎の彫刻刀 / <マルサダ>の一文字型玄能 / 錆落とし / 父の検証 / 研ぎ / 焼班やきむら / 仮説と消えゆくウラの文様 / 異形、異例の彫刻刀

借受記録帳より――光太郎のアイスキ刀 図面および寸法と覚書
参考文献
あとがき

著者の土田昇氏は、三軒茶屋の土田刃物店三代目店主であらせられます。木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげ込み等を行う職人さんであると同時に、お父さまの二代目店主・一郎氏と交流のあった伝説の大工道具鍛冶・千代鶴是秀作品の研究家としてもご活躍。平成29年(2017)に『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を刊行されています。

千代鶴是秀は光太郎の木彫道具も制作しましたし、実現したかどうか不明なのですが、光太郎は終戦直後、是秀に身の回りの道具類の制作をお願いしたいという旨の書簡を送っています。また、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎を、是秀が中野のアトリエにひょっこり訪ねたりもしています。「乙女の像」の石膏取りをした牛越誠夫は是秀の娘婿でした。

是秀が光太郎のために作った彫刻刀は、令和3年(2021)に東京藝術大学正木記念館さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展で初公開されました。その少し前に髙村家で見つかったもので、土田氏がその錆び落とし、研ぎにあたられたとのこと。「第四章 道具を作る、道具を使う――是秀と光太郎」に、その経緯や作業の工程などが詳しく語られていて、実に興味深く拝読いたしました。

問題の彫刻刀は、先端部分のみを木製の柄にすげる通常の彫刻刀と異なり、柄の部分まで鉄で出来た「共柄」と呼ばれるタイプ。当方、この手の道具類にはさほど詳しいわけではなく、現物を拝見した時には「へー、このタイプか」と思っただけでした。しかし、本書を読むと「共柄」のものは実用に適さず、土田氏は「異形」とまで言い切られています。光太郎と交流のあった朝倉文夫は、わざわざ是秀が作った「共柄」の彫刻刀の鉄製の柄に木製の柄をかぶせていたそうで。

また、材質も特殊。是秀は早い時期から日本の伝統的な「玉鋼」ではなく、より良質な輸入鋼の「洋鋼」による制作を主流としていたにもかかわらず、光太郎の彫刻刀は「玉鋼」製だったとのこと。そうした異形、異質な作品が光太郎に作られた理由について、考察が為されています。

また、光太郎の父・光雲が使っていた玄能(げんのう)についても。こちらは「丸定」という明治期の名工の作。こちらも錆び落としや柄の補修などを土田氏が担当され、そのレポートも読み応えがありました。作業が一段落した際の記述に曰く「空振りするだけで、握る手、振り上げ振り下ろす肩や腕に制作者丸定と、柄をすげて実用した光雲が憑依しているかのように感じました」。

昨日届いたばかりですし、300ページに迫る厚冊ですので、まだ全て読み終えていませんが、他にも『光雲懐古談』、光太郎のさまざまな評論やエッセイ、詩についての考察などがちりばめられています。木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげ込み等に取り組まれている土田氏の読み方は、やはりいわゆる「評論家」のセンセイとはひと味もふた味も違います。なにげに読み飛ばしてしまうような一行に、「この背景にはこういうことがある」という指摘、唸らせる部分が多々ありました。

また、光雲や光太郎の周辺にいたさまざまな彫刻家などについての記述も。荻原守衛はもちろん、森大造などについても触れられていて、舌を巻きました。

ちなみにタイトルの「瀏瀏と研ぐ」は、『智恵子抄』にも収められた光太郎詩「鯰」(大正15年=1926)からの引用です。

   鯰

 盥の中でぴしやりとはねる音がする。000
 夜が更けると小刀の刃が冴える。
 木を削るのは冬の夜の北風の為事(しごと)である。
 煖炉に入れる石炭が無くなつても、
 鯰よ、
 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
 檜の木片(こつぱ)は私の眷族、
 智恵子は貧におどろかない。
 鯰よ、
 お前の鰭に剣があり、
 お前の尻尾に触角があり、
 お前の鰓(あぎと)に黒金の覆輪があり、
 さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、
 何と面白い私の為事への挨拶であらう。
 風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。
 智恵子は寝た。
 私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
 研水(とみづ)を新しくして
 更に鋭い明日の小刀を瀏瀏と研ぐ。

土田氏にかかると、終わりから二行目の「研水(とみづ)を新しくして」だけでも深い意味。詳しくはぜひお買い求めの上、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩稿「暗愚小伝」(題名未定)は、いつまでも書き直してゐてもきりがありませんから此の十五日までに遅くもそちらに届くやうにするつもりで居ります。 一応読んでみて下さい。雑誌でも検閲があるのでせうが一切自由に書きましたからご注意下さい。

昭和22年(1947)6月1日 臼井吉見宛書簡より 光太郎65歳

自己の生涯を振り返り、同時に戦争責任にも言及した20篇から成る連作詩「暗愚小伝」。前年から取り組んでいて、ようやくほぼ脱稿しました。これを書く前と後とでは、花巻郊外旧太田村での山小屋生活の意味もかなり変容したように思われます。移住当初はここに仲間の芸術家たちを招いて「昭和の鷹峯」を作るといった無邪気な夢想もありましたが、続々入る友人知己の戦死の報(木彫「鯰」を贈った新潟の素封家・松木喜之七なども)、東京で巻き起こった戦犯追及の声などに押され、自らの戦争責任を直視せざるを得ず、「自己流謫」へと。「流謫」は「流罪」に同じです。