光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関わり、急遽出版された書籍です。

中野・中西家と光太郎

2024年4月2日 勝畑耕一 著  小山弘明 監修  文治堂書店 定価400円+税

目次001
 中西利雄と水彩画
  一 明治期の水彩画について
  二 真野紀太郎との出会い
  三 二人の小山を知る
  四 牛込区水道町界隈
  五 東京美術学校に入学
  六 震災後に中野区・桃園へ
  七 「白山丸」でマルセイユへ
  八 渡欧の四年間
  九 『優駿出場』が帝展特選に
  一〇 結婚・作品集の刊行
  一一 戦争が始まる
  一二 絵を描く喜びを再び
  一三 襲い来る病魔
 光太郎とアトリエ
  一四 昭和二十年の光太郎
  一五 花巻での宮沢家・佐藤家との関り
  一六 賢治没後の清六、心平、光太郎の絆
  一七 山荘での七年間
  一八 十和田湖「乙女の像」制作
  一九 中西家との交友
  二〇 雪の日にアトリエで逝去


当方、「監修」とクレジットされています。とりあえず校正をした程度ですが。

前半は中野のアトリエを建てた新制作派の水彩画家・中西利雄(明33=1900~昭23=1948)の評伝。当方、中西についてはそれほど詳しくはなかったので、「なるほど、こういう人物だったのか」という感じでした。日本に於ける水彩画の普及・発展に果たした役割は大きなものがありました。惜しむらくは数え49歳での早世。戦後となり、これから戦時中の空白を取りもどそう、という時期でしたし。

その結果、主なき新築のアトリエが遺され、貸しアトリエとなったわけで、イサム・ノグチ、そして光太郎が店子(たなこ)となりました。

後半は中西アトリエでの光太郎、というか、そこに入るに至る経緯を含めて終戦の年・昭和20年(1945)からの光太郎についてです。

全44ページと厚いものではありませんが、見開き2ページの片側には必ず中西作品の写真や当時の古写真、古地図等の図版が入り、理解の手助けとなっていて、内容は濃い感じです。

4月2日(火)、日比谷松本楼さんでの第68回連翹忌の集いの際、参会の皆様には配付されたようです(当方、主催者でありながら資料の袋詰めは他の皆さんにほとんどやっていただき、詳しく把握していません)。他に30部程頂いて帰りまして(現物支給が「監修」ギャラです(笑))、その後、連翹忌の欠席者や全国の文学館・美術館さん等のうち、関わりが深そうなところへは、他の配付資料ともども発送している最中です。

ご入用の方、文治堂書店さんへお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

五月十五日は小生が花巻にはじめて疎開して来た記念日なので、宮沢邸に御礼言上の為花巻に出で、数日間滞在、やつと山へ帰つて来ました。


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

東京を離れてまる二年が経過、というわけです。