今年も4月2日、光太郎の命日が巡って参りました。

朝鮮戦争による特需景気、その後の神武景気を経て、前年のGDPが戦前の水準を上回り、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言し、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞受賞、「太陽族」の語が流行語となった昭和31年(1956)。その4月2日(月)、不世出の巨人・高村光太郎は天然の素中に還っていきました。

その終焉の地、中野区の中西利雄アトリエの大家(おおや)だった中西夫人、故・富江氏の回想。

 先生が私の家に来られたその翌年の正月、十和田湖の彫刻の仕事に打込んでいられた時のことでしたが、ちようど正月の仕事始めをなさるその日に雪が降りました。「これは縁起がいい」と先生がつぶやかれたのを覚えています。雪の白さに先生は天啓のようなものを感じられたのでしょうか。子どものころ雪が降ると湧きたつたあのうれしさ楽しさ、そんなものを先生はやはり心のどこかにもつていられたに違いありません。
 そして、あの四月二日未明は十何年ぶりとかの春雪にこの地上は祝福されていたのでした。先生のいわれたあの言葉。縁起がいいというあのお言葉のままに、先生は白い清らかな雪に迎えられて、この地上から旅立たれて行かれたのでした。
 あの時、アトリエからのベルに飛び起きました。あまりの衝撃に私は気を失わんばかりでした。膝はガクガクふるえ、羽織を着る手もふるえて手間どつたように思い出されます。廊下から飛び出すようにして雪に包まれた庭を敷石伝いに走りながら「どうかご無事でありますように」と心の中で私は祈り続けました。
 アトリエに入ると、看護婦さんが、私をみるなり「もう駄目ですよ」と言いました。それは暗い暗い深いおとし穴に突き落とされた瞬間でした。
 ベッドにかけつけた時の先生のお痛ましいお姿、前の晩から、よほど苦しかつたとみえて、酸素吸入をしたいとご自分から云い出された先生。吸入器をつけて、ずい分お苦しかったことでしよう。
 かすかな息づかいの中で……あのひと息ごとにうなるようにしていられた声も今は立てられず……それから間もなく本当に静かに、素直に、大きな自然の中へ帰つて行かれたのでした。
(略)
 いよいよ重態になられてからも、看護婦さんや家政婦さんの喰べるものまでも心配されていたことなど、最後まで意識がはつきりしておられた先生のお言葉が未だに私の脳裡をはなれません。
 あれからもう一と月経ちました。高村先生がお好きだつたれんぎようの美しい花もすつかり散り、燃えるような新緑が五月の風にそよいでいます。母屋からアトリエに通ずる庭の石ダタミの道。お元気だつたころは、よく夕方、母屋でお湯を使つてから、タオルと石ケンを片手に、ゆらりゆらりとアトリエに帰つて行かれるその後姿が、まるで昨日のことのように思いおこされます。……その道も今は樹々の緑におおわれて、緑のトンネルのようになつています。私の心の中で、肩を落として背を丸められた丹前姿の先生が小さく……だんだん小さく緑の中に遠ざかつて行きます。
 尾崎喜八さんが弔辞の中でお話しになつたように、もう一度こちらを振返えつて、あの大きなお手をふつて下されば……などと時折考えたりいたしております。
(「中野アトリエの高村先生」 『高村光太郎と智恵子』草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959) 
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胸打たれる文章ですね。

1年後の昭和32年(1957)4月2日(火)、記念すべき第一回連翹忌も、終焉の地・中西利雄アトリエで行われました。以後、いろいろな場所に会場を変え、平成11年(1999)の第43回から、現在と同じ、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんでの開催となっています。

本日も午後5:30開会で、全国から光太郎智恵子を敬愛する方々70名超にお集まりいただき、連翹忌の集いを開催いたします。

昨年、コロナ禍も漸く沈静化し、4年ぶりに第67回連翹忌を開催致しましたが、今年もつつがなく執り行うことができそうで、喜びに堪えません。

今回の連翹忌は、その史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなります。そしてやはり今回、光太郎終焉の地にして記念すべき第1回連翹忌会場となった中野区の中西利雄アトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるのかと考える次第であります。

皆様方におかれましても、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ幸いに存じます。

【折々のことば・光太郎】

もう雪解の季節になりました。今日は猛烈な風で山林が鳴動してゐます。

昭和22年(1947)4月2日 安藤一郎宛書簡より 光太郎65歳

ちょうど亡くなる9年前、当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの発信です。