光太郎智恵子、光雲に掠(かす)った小説を2冊、ご紹介します。

火口に立つ。

2024年2月3日 松本薫 著 小説「生田長江」を出版する会 刊 定価1,800円+税

たぎる時代を果敢に生きた生田長江と一人の女性の物語。

主人公・律の目を通して描かれる、日野町出身の文学者・生田長江と彼を取り巻く人々。『青鞜』の創刊、大正デモクラシー、関東大震災――沸騰し、揺れる時代の中、誰もが火口に立っていた。

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目次
 一章 坂の上の家    明治四十四年(一九一一)春――
 二章 『青鞜』の女たち 明治四十四年(一九一一)春――大正元年(一九一二)冬
 三章 デモクラシーの旗 大正二年(一九一三)春――大正四年(一九一五)春
 四章 自立という名の嵐 大正四年(一九一五)夏――大正六年(一九一七)夏
 五章 デモクラシーの波 大正七年(一九一八)夏――大正八年(一九一九)夏
 六章 資本と労働    大正八年(一九一九)夏――大正九年(一九一〇)夏
 七章 揺らぐ大地    大正十二年(一九二三)夏――大正十四年(一九二五)冬
 八章 ここを超えて   昭和三年(一九二八)春――昭和十二年(一九三七)夏
 終章          昭和三十三年(一九五八)秋

評論家・翻訳家の生田長江の家に女中(コンプライアンス的に問題のある表現ですが当時の用語をそのまま使わせていただきます)として勤めていた南原律という架空の人物を主人公にした小説です。

高等教育も受けていなかった律が、長江やその周辺の人物らの感化・薫陶を受けて社会運動に強い関心を持ち、大それたことはできないものの、自分なりに社会変革に取り組んでいくというストーリー。

生田長江は光太郎より一つ年上で明治15年(1882)、鳥取県の生まれ。智恵子がその創刊号の表紙を描いた『青鞜』の名付け親です。青鞜社主催の講演会で共に壇上に立ったり、与謝野家での歌会に同席したりと、光太郎とも面識がありました。小説ではそのあたりのシーンが描かれておらず、残念ながら光太郎の名は全編通して出て来ませんでした。智恵子は表紙絵の関係で3回ほど触れられましたが登場はしませんでした。

ただ、『青鞜』主宰の平塚らいてうをはじめ、光太郎智恵子と交流のあった人々がたくさん登場します。与謝野夫妻、佐藤春夫、生田春月、馬場孤蝶、森鷗外、尾竹紅吉、有島武郎、中村武羅夫、足助素一、そして映画「風よ あらしよ」などで再び脚光を浴びている大杉栄と伊藤野枝などなど。

目次を見ると、長江がどの時期にどういった活動に取り組んでいたかが概観できますね。長江は大杉らほどの過激な主張はしませんでしたが、社会変革に対する意識は高く持ち続けました。また、ハンセン病に罹患していたこともあり、その方面での差別等との闘いも、本書の大きな流れを形作っています。

作者の松本薫氏は鳥取ご出身で、地域密着の小説等を書かれている方。版元は「小説「生田長江」を出版する会」さん。長江の地元・鳥取県日野郡日野町で長江の顕彰に当たられている団体のようです。素晴らしい取り組みだと思いました。

もう一冊。

時ひらく

2024年2月10日 辻村深月/伊坂幸太郎/阿川佐和子/恩田陸/柚木麻子/東野圭吾 著
文藝春秋(文春文庫) 定価700円+税

創業350年の老舗デパート『三越』をめぐる物語

楽しいときも、悲しいときも いつでも、むかえてくれる場所
物語の名手たちが奏でる6つのデパートアンソロジー 文庫オリジナル!

制服の採寸に訪れて感じたある予感。ライオンに跨る必勝祈願の言い伝えを試して見えたもの。老いた継母の買い物に付き合ってはぐれてしまった娘。命を宿した物たちが始めた会話。友達とプレゼントを買いに訪れて繋がった時間。亡くなった男が最後に買った土産。歴史あるデパートを舞台に、人気作家6人が紡ぐ心揺さぶる物語。
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目次
 「思い出エレベーター」 辻村深月
   階下を見下ろしている泣きそうな顔の子どもがもし、いたら。
 「Have a nice day!」 伊坂幸太郎
   三越のライオン、知ってる? あれに跨ると夢が叶うんだって。
 「雨あがりに」 阿川佐和子
   三越でしか買い物をしないなんて、どこかのお嬢様のすることだ。
 「アニバーサリー」 恩田陸
   ざわざわするというか、ウキウキするというか。
 「七階から愛をこめて」 柚木麻子
   私の本当の願いはね。これから先の未来を見ることなの。
 「重命(かさな)る」 東野圭吾
   草薙は思わず声をあげて笑った。「いいねえ、湯川教授の人生相談か」

昨年から今年にかけての、雑誌『オール読物』さんでのリレー連載でした。

キーワードはずばり「三越」。前身の越後屋呉服店創業から数えて350年ということでの記念企画の一環です。そこで表紙も三越さんの包装紙がモチーフ。素晴らしいと思いました。「この手があったか」とも。書店で平積みになっていると、ひときわ目立ちます。
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ちなみにこの包装紙、デザインは新制作派の画家で光太郎とも交流のあった猪熊弦一郎。ちゃんと「華ひらく」というタイトルがついた作品です。モチーフは大正元年(1912)、光太郎智恵子が訪れ、愛を確かめ合った千葉銚子犬吠埼海岸付近の石だそうです。
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そして「mitsukoshi」のロゴは故・やなせたかし氏の筆跡。氏はメジャーになる以前、三越さんに勤務されていました。

さて、『時ひらく』。心温まる小説あり、ハラハラドキドキのスペクタクルあり、ファンタジーあり、推理小説(東野圭吾氏の「ガリレオ」シリーズ最新作)あり、ウクライナ問題への言及ありの6篇です。

6篇すべてに三越さんが登場。4篇は日本橋本店さん、1篇は仙台店さんが物語の主要な舞台です。1篇だけは日本橋本店さんのデパ地下がちらっと舞台に。日本橋本店さんでは、もはや「アイコン」ともいうべき店内のさまざまな名物が描かれます。光太郎の父・光雲の孫弟子にあたる佐藤玄玄(朝山)作の巨大彫刻「天女( まごころ)像」、その足下にいくつも見られる大理石中のアンモナイト化石、同じく中央ホールのパイプオルガン、さらに三越劇場、そして三越さんのシンボル・ライオン像……。なんと1篇はそれらのアイコンたちが主人公(笑)。それぞれが見つめてきた歴史などが語られます。

日本橋本店さんのアイコンといえば、屋上・三囲神社さんに鎮座まします光雲作の「活動大黒天」も外せないような気がします。そこで、それも登場するかと期待しつつ頁を繰りましたが、残念ながら出て来ませんでした。まぁ、通常非公開の像なので、仕方がありませんか……。

以前も書きましたが、当方、学生時代、毎年お歳暮の時期に三越さんの配送で長期のアルバイトをしておりました。店舗の方ではなく江東区木場の再送品センターが主な勤務地でしたが。バブル前夜でかなりの日給でした。そこで三越さんには特別な思い入れがあり、ついつい熱く語ってしまいました(笑)。

さて、『火口に立つ。』/『時ひらく』、それぞれぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

スケツチは何かお送り出来るかと思ひます。色彩が印刷でよく出るかどうか疑はれますから、極く淡くか又は黒と白とだけで描くべきでせう。


昭和22年(1947)3月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

この年、更科によって北海道で発刊された雑誌『至上律』への執筆等依頼への返信の一節です。「スケツチ」は11月の第2輯にカラー印刷で掲載されました。奇跡的に現物が残っており、花巻郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されています。
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