智恵子の故郷・二本松系の情報を。
まず、二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』。同市では毎月末に来月号をサイト上にアップしていまして、4月号です。
ここ数年、「桜の街」を謳っている同市ですので、毎年4月号は市内の桜関係の情報が満載。表紙も二本松城(霞ヶ城)の桜です。
令和元年(2019)に同市で開催された「2019全国さくらシンポジウム」のキャッチフレーズ「ほんとの空にさくら舞う」が使われ続けています。
市内の銘木紹介。智恵子生家/智恵子記念館を含む智恵子の杜公園の桜が紹介された年もあったのですが、今年はありません。
まず、二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』。同市では毎月末に来月号をサイト上にアップしていまして、4月号です。
ここ数年、「桜の街」を謳っている同市ですので、毎年4月号は市内の桜関係の情報が満載。表紙も二本松城(霞ヶ城)の桜です。
令和元年(2019)に同市で開催された「2019全国さくらシンポジウム」のキャッチフレーズ「ほんとの空にさくら舞う」が使われ続けています。
市内の銘木紹介。智恵子生家/智恵子記念館を含む智恵子の杜公園の桜が紹介された年もあったのですが、今年はありません。
臨時バス情報。こちらは智恵子生家/智恵子記念館も行程に入っている「二本松春さがし号」にも触れられています。
ただし、思いのほか開花が遅れたということで、3月29日(金)~4月7日(日)だった当初運行予定が変更となり、1週間先送りで4月5日(金)~4月14日(日)となったそうです。広報では訂正が間に合わなかったようです。
ただし、思いのほか開花が遅れたということで、3月29日(金)~4月7日(日)だった当初運行予定が変更となり、1週間先送りで4月5日(金)~4月14日(日)となったそうです。広報では訂正が間に合わなかったようです。
過日ご紹介した周遊観光タクシーともどもご利用をご検討下さい。
二本松系でもう1件、テレビ番組の放映情報です。
日本全国の秘湯と呼ばれる温泉の魅力を紹介します。今回の秘湯は福島県、岳温泉「奥岳の湯」「花かんざし」、宮城県、鬼首温泉「ホテルオニコウベ」、温湯温泉「佐藤旅館」。
奥岳の湯さんはこの番組で平成30年(2018)にもが取り上げられ、光太郎智恵子の名を出して下さいましたが、使い回しの映像なのか、新作なのか、というところです。花かんざしさんは初の登場です。
ちなみに令和2年(2020)8月放映の那須塩原温泉・塩の湯柏屋旅館さんが取り上げられた回では、光太郎智恵子が泊まった宿というご紹介をして下さいました。
今回、「ほんとの空」「智恵子抄」といったワードが出てくるかどうか微妙なところですが……。
というわけで、二本松、岳温泉、ぜひ足をお運びいただき、桜と温泉をご堪能ください。
【折々のことば・光太郎】
写真たくさん届きました。みんなにあつたやうな気がしました。中々よくとれてるのもあります。笑つて居るのはみんないいです。ありがと。ツマゴといふのは雪の中を歩くワラグツです。小生のは特大です。
令甥の故・髙村規氏宛の絵手紙です。後に写真家となられた規氏、このころはまだ高校生でしたが、既に趣味的に写真撮影に取り組まれていました。おそらく御家族(父君は光太郎実弟・豊周)の写真を光太郎に送ったのでしょう。戦争末期、豊周一家は光太郎の花巻疎開より前に長野に疎開していたため、2年以上会っていませんでした。
二本松系でもう1件、テレビ番組の放映情報です。
秘湯ロマン
地上波テレビ朝日 2024年3月30日(土) 03:00~03:30日本全国の秘湯と呼ばれる温泉の魅力を紹介します。今回の秘湯は福島県、岳温泉「奥岳の湯」「花かんざし」、宮城県、鬼首温泉「ホテルオニコウベ」、温湯温泉「佐藤旅館」。
【旅人】秦瑞穂 【ナレーション】丸山未沙希
安達太良山の登山口にある奥岳の湯さん、中腹の花かんざしさん。奥岳の湯さんはこの番組で平成30年(2018)にもが取り上げられ、光太郎智恵子の名を出して下さいましたが、使い回しの映像なのか、新作なのか、というところです。花かんざしさんは初の登場です。
ちなみに令和2年(2020)8月放映の那須塩原温泉・塩の湯柏屋旅館さんが取り上げられた回では、光太郎智恵子が泊まった宿というご紹介をして下さいました。
今回、「ほんとの空」「智恵子抄」といったワードが出てくるかどうか微妙なところですが……。
というわけで、二本松、岳温泉、ぜひ足をお運びいただき、桜と温泉をご堪能ください。
【折々のことば・光太郎】
写真たくさん届きました。みんなにあつたやうな気がしました。中々よくとれてるのもあります。笑つて居るのはみんないいです。ありがと。ツマゴといふのは雪の中を歩くワラグツです。小生のは特大です。
昭和22年(1947)3月3日
髙村規宛書簡より 光太郎65歳
髙村規宛書簡より 光太郎65歳
令甥の故・髙村規氏宛の絵手紙です。後に写真家となられた規氏、このころはまだ高校生でしたが、既に趣味的に写真撮影に取り組まれていました。おそらく御家族(父君は光太郎実弟・豊周)の写真を光太郎に送ったのでしょう。戦争末期、豊周一家は光太郎の花巻疎開より前に長野に疎開していたため、2年以上会っていませんでした。