このブログサイトでたびたび取り上げさせていただいている、宮城県女川町の「いのちの石碑」。避難の際の目印となるようにと、東日本大震災時の津波到達地点より高い場所、全21箇所に設置されたものです。中学生たちが、同じ女川町の光太郎文学碑を参考に、「100円募金」で建てました。
過日、そのプロジェクトの中心メンバーのうちお三方が、母校の後輩たちに特別授業を行った件が地方紙『石巻日日新聞』さんで報じられましたが、同じ件をミヤギテレビさんでも大きく取り上げていました。
【折々のことば・光太郎】
映画も見ました。「うたかたの恋」といふ変な日本名のフランス物でしたが、久しぶりにボワイエやダリユーのフランス語をきき、なつかしく思ひました。言葉の妙味は尽きません。
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から久しぶりに花巻町中心街に出て、宮沢賢治実弟の清六らとともに映画鑑賞。「うたかたの恋」は原題「Mayerling」(オーストリアの地名)、昭和11年(1936)の作品です。「ボワイエ」は『ガス燈』で有名なシャルル・ボワイエ、「ダリユー」はのちに『チャタレイ夫人の恋』に出演するダニエル・ダリュー。
昭和32年(1957)になってアメリカでテレビ映画としてリメイクされ、その際のヒロインはオードリー・ヘップバーンでした。
過日、そのプロジェクトの中心メンバーのうちお三方が、母校の後輩たちに特別授業を行った件が地方紙『石巻日日新聞』さんで報じられましたが、同じ件をミヤギテレビさんでも大きく取り上げていました。
女川中の中学生が建てた「いのちの石碑」卒業生が後輩に伝えたことは
「震災当日は食料もない、寒い。みんなで大きいペットボトルを回し飲みしたり。 先生が小学校からカーテンを持ってきてくれて。 3月11日は雪が降ってすごく寒い。みんなでカーテンにくるまって過ごしました」
続いて伝えたのは中学生ながらに考えた町の復興について。
卒業生・鈴木美亜さん
「当時はまだ復興していなくて茶色い土。いまからどういう町にしたいかっていうのを中学生ながらに考えて、それを模型にして女川町長に実際プレゼンをしてこういう町にしたいと考えた」
当時、生徒たちが取り組んだことは…
鈴木美亜さん(当時中学生)
「千年後の命を守るために津波の最高到達地点に石碑を建てようと考えていて子ども募金よろしくお願いします」
津波の記憶と避難の教訓を後世に残そうと女川町のそれぞれの浜の津波より高い場所に避難の目印となる「いのちの石碑」を建てた。
いまの中学生は震災の記憶がほとんどない世代だ。
女川中の2年生
「難しい質問になると思うが避難所とか今もそうだと思うんですが人の心を温められることはどんなことだと思いますか?」
卒業生・伊藤唯さん
「難しい質問ですけど私個人の話なんですけど、東京でダンスの仕事しているんですけど、ダンサーって仕事ね、震災前からやっていて。震災前からの夢ではあったが震災後、笑顔が失われみんな暗い表情をしている中で、中学3年生の時かな女川のサンマ収穫祭、いまもあるよね?サンマ収穫祭でステージに立たせてもらった時に友達とか知らないおじいちゃん おばあちゃんが拍手してくれたのが嬉しくて、この夢絶対かなえて『人の心に寄り添える人になろう』と思って、 いまこの仕事につけているのですごく幸せなんだけど。たぶん人の心を温めることって 難しいけど、だれにでも出来ること。」
女川中の生徒たちは防災への意識を新たに―
女川中の生徒会長
「多分、その時、自分が被災してやろうとなったら、やりたいとは思うけど、いざ行動に移してみるのは難しいと思うので、行動に移し途中で途絶えもせず 続けている先輩方は本当に素晴らしい活動をしてると思いました。」
13年前、がれきとなってしまった故郷を目の当たりにしながらも未来の命を救いたいと考えた当時の中学生たちの思いはしっかり、伝わっていた。
彼らの取り組み、単なる「美談」として終わらせるのではなく、この国全体に「防災」の意識を高める契機となればと存じます。【折々のことば・光太郎】
映画も見ました。「うたかたの恋」といふ変な日本名のフランス物でしたが、久しぶりにボワイエやダリユーのフランス語をきき、なつかしく思ひました。言葉の妙味は尽きません。
昭和22年(1947)2月22日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から久しぶりに花巻町中心街に出て、宮沢賢治実弟の清六らとともに映画鑑賞。「うたかたの恋」は原題「Mayerling」(オーストリアの地名)、昭和11年(1936)の作品です。「ボワイエ」は『ガス燈』で有名なシャルル・ボワイエ、「ダリユー」はのちに『チャタレイ夫人の恋』に出演するダニエル・ダリュー。
昭和32年(1957)になってアメリカでテレビ映画としてリメイクされ、その際のヒロインはオードリー・ヘップバーンでした。