俳優の寺田農さんが亡くなりました。
『朝日新聞』さんから。
『朝日新聞』さんから。
俳優の寺田農さん死去 映画・ドラマで渋い脇役、「ムスカ大佐」も
渋い脇役として映画やドラマで長く活躍した俳優の寺田農(てらだ・みのり)さんが14日、肺がんで死去した。81歳だった。所属事務所が23日、公式サイトで公表した。葬儀は近親者で営んだ。
1942年、東京都出身。父は洋画家の寺田政明。文学座付属演劇研究所を経て、テレビドラマ「青春とはなんだ」で注目を集める。68年、岡本喜八監督の映画「肉弾」で毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。「セーラー服と機関銃」「ラブホテル」など相米(そうまい)慎二監督や実相寺昭雄監督らの作品、NHK連続テレビ小説「澪(みお)つくし」といったテレビドラマや特撮作品「ウルトラマン」シリーズに出演。主に渋い脇役として長く活躍し、2021年には映画「信虎」で36年ぶりの主役を務めた。
ナレーターや声優としても活動し、アニメ映画「天空の城ラピュタ」の悪役ムスカ大佐の声で知られた。
寺田さんが光太郎詩の朗読をなさったソフトが2種類、販売されています。
まず平成6年(1994)にクレオハウスさんという会社の出したVHSビデオ「日本文学紀行 名作の風景 智恵子抄」。ナレーションも寺田さんでした。
最近も、令和元年(2019)、株式会社トゥーヴァージンズさんから出たCD13枚組「【近代文學の泉】朗読で味わう文豪の名作」で光太郎詩35篇を担当。
令和3年(2021)には同一音源を使った普及版として「朗読で味わう文豪の名作4(CD3枚組)太宰治・島崎藤村・高村光太郎」も発売されました。
また、遡って昭和42年(1967)、岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演の松竹映画「智恵子抄」にもご出演。まだ若手の頃で、公式パンフ等にはクレジットがありませんでしたが、美に取り憑かれ、心を病んで自殺してしまう画学生の役でした。
寺田さんが光太郎詩の朗読をなさったソフトが2種類、販売されています。
まず平成6年(1994)にクレオハウスさんという会社の出したVHSビデオ「日本文学紀行 名作の風景 智恵子抄」。ナレーションも寺田さんでした。
最近も、令和元年(2019)、株式会社トゥーヴァージンズさんから出たCD13枚組「【近代文學の泉】朗読で味わう文豪の名作」で光太郎詩35篇を担当。
令和3年(2021)には同一音源を使った普及版として「朗読で味わう文豪の名作4(CD3枚組)太宰治・島崎藤村・高村光太郎」も発売されました。
また、遡って昭和42年(1967)、岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演の松竹映画「智恵子抄」にもご出演。まだ若手の頃で、公式パンフ等にはクレジットがありませんでしたが、美に取り憑かれ、心を病んで自殺してしまう画学生の役でした。
さらに昭和48年(1973)には、NHKさんの「生きて愛して」。平日午後10時から15分ずつ放映されていた「銀河テレビ小説」という帯ドラの一つで、光太郎智恵子を描いたものでした。光太郎は片岡仁左衛門さん、智恵子が大空真弓さん。寺田さんは光太郎の親友・荻原守衛の役で、全30話中の第2話から第5話にご出演なさいました。
そのご縁で、一昨年、守衛の個人美術館・碌山美術館さんでクラウドファンディングを行った際、寺田さんも応援メッセージを寄せられました。
最初、「守衛(もりえ)」でなく「守衛(しゅえい)」の役だと勘違いなさったというエピソードには笑わせていただきました。
お父さまは智恵子も通っていた太平洋画会に所属されていた画家ということなので、美術とは浅からぬご縁がおありだったのですね。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
今は何を措いても国民が気を揃へて物を生み出す事に懸命になる外ありません。何しろあの無理を押し切つての戦争のあとですから今日のやうな状態はどちらにしても必ず来るにきまつてゐた事です。相互扶助の精神こそ今日最も要求せられるものと存ぜられます。
終戦からおよそ1年半。空襲やなどによる命の危険は去ったものの、食料をはじめとする物資不足などの国民生活の混乱はまだまだ続いていました。
そのご縁で、一昨年、守衛の個人美術館・碌山美術館さんでクラウドファンディングを行った際、寺田さんも応援メッセージを寄せられました。
最初、「守衛(もりえ)」でなく「守衛(しゅえい)」の役だと勘違いなさったというエピソードには笑わせていただきました。
お父さまは智恵子も通っていた太平洋画会に所属されていた画家ということなので、美術とは浅からぬご縁がおありだったのですね。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
今は何を措いても国民が気を揃へて物を生み出す事に懸命になる外ありません。何しろあの無理を押し切つての戦争のあとですから今日のやうな状態はどちらにしても必ず来るにきまつてゐた事です。相互扶助の精神こそ今日最も要求せられるものと存ぜられます。
昭和22年(1947)2月10日 鏑慎二郎宛書簡より 光太郎65歳
終戦からおよそ1年半。空襲やなどによる命の危険は去ったものの、食料をはじめとする物資不足などの国民生活の混乱はまだまだ続いていました。