昨日も上京しておりました。目的地は台東区上野の落語協会さん。
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こちらで開催された「彌生・初演の会」拝聴のためです。
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「初演の会」は毎月開かれているようで、「初演」ですから古典ではなく創作落語。昨日は鈴々舎馬桜師匠による「高村光雲」が初演されました。
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光太郎の父・光雲の談話筆記になる『光雲懐古談』を読まれた馬桜師匠が、その落語的面白さや光雲の江戸っ子的テイストなどを創作落語に出来ないか? と考えられての試みでした。

前半は『光雲懐古談』にある、光雲少年時代(まだ幕末)、ひょんなことから当代一の仏師・高村東雲の元に弟子入りすることになったくだり、修業時代に端材で彫った鼠の木彫が高僧の目にとまり、思いがけず買い上げて貰ったエピソードなど。

後半は上野ということで、光雲が主任となって東京美術学校総出で制作された上野公園の西郷隆盛像について。『光雲懐古談』には西郷像の話は出て来ませんので、他の資料をベースに、馬桜師匠が「こんなこともあったんじゃないか」という想像です。岡倉天心、勝海舟、伊藤博文、岩崎久弥、果ては明治天皇まで登場し、歴史好きにはたまらないでしょう。

ちなみに『光雲懐古談』では西郷像の件は語られていませんが大正12年(1923)に刊行された『南洲手抄言志録解』(馬場禄郎編・一指園)、昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』に光雲の苦心談が語られています。共に当会発行・当方編集の『光太郎資料』第59集に載せておきました。

他の演目は、以下の通り。

やはり馬桜師匠による「宿題三題噺」。毎月の「初演の会」で、その時のお客さんから「題」を預かり、翌月までに一つの噺にまとめて披露するというもの。お題は「①大谷翔平」「②金持ち喧嘩せず」「③花見酒」。当初予定では他の噺家さんの担当だったそうですが、急遽、馬桜師匠が代役を務められました。来月分の「題」もこの日のお客さんから募り、当方以外は皆常連さんやご同業の方だったようで、いろいろ無茶振りが提案されていました(笑)。

林家たたみさんによる上方古典落語「花筏」。まだ前座の方だそうでしたが、かえってその初々しい感じに好感が持てました。

桂右團治さんで「心眼」。右團治さん、現代の落語界に詳しくない当方、そのお名前から当然男性だろうと勝手に思い込んでいましたが、囃子とともに出ていらしたのが女性だったので驚きました。落語芸術協会さんで初の女性真打だそうでした。「心眼」は光雲が(息子の光太郎も)ファンだった三遊亭圓朝が明治期に作ったものだそうで、奇縁に驚きました。

さて、馬桜師匠の「高村光雲」。来月、また高座にかかります。

山野楽器落語の一日 第二部 熱血・若手落語会

期 日 : 2024年4月5日(金)
会 場 : ヤマノミュージックサロン池袋 東京都豊島区南池袋1-19-5
時 間 : 15:00~17:00
料 金 : 2,000円

番組
 |、牛ほめ     台所おさん
 |、高村光雲    鈴々舎馬桜
 |、饅頭怖い    林家たこ蔵
 |、百年目     鈴々舎馬るこ

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

予定の彫刻はまづ潺湲楼の額を彫り、次に椿材で帯留を一ツ彫り、これは院長さんの夫人に献ずるつもり。それから小木彫と粘土の裸像、これは智恵子観音の原型。

昭和22年(1947)2月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活、まだこの頃は戦争協力を恥じ、自らに罰を与える彫刻封印という考えには至っていなかったようです。

「潺湲楼」は山小屋に移る前に厄介になっていた総合花巻病院長・佐藤隆房邸離れ。光太郎が命名し、佐藤が「ではその文字を彫って下さい」と板を用意し、制作を始めましたました。しかし、結局途中で放棄してしまいます。
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「帯留」も佐藤家には見あたらないとのこと。ところが昨年、宮沢賢治実弟の清六夫人に送られていたことが判明し、仰天しました。しかし、戦後のドサクサで現物は残っていないということでした。

「智恵子観音」は形を変え、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として昭和28年(1953)に結実します。