今年もまた3.11がやって参りました。あの日から13年です。

昭和6年(1931)8月から9月にかけての約1ヶ月、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は宮城県石巻から岩手県宮古までの三陸海岸を主に船で旅しました。その行程に含まれていた宮城県女川町の海岸公園に、四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)。地元ご在住の画家・貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。

翌年8月9日(昭和6年に光太郎が三陸に向けて東京を発った日)、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力なさり、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。以来、毎年8月9日に貝(佐々木)氏を中心に女川光太郎祭が開催され続けていました。

そして平成23年(2011)3月11日。東日本大震災に伴う大津波が女川の町を呑み込みました。
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貝(佐々木)氏も還らぬ人となってしまいました。
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氏の奔走で建立された光太郎文学碑も被災。4基中の2基は海底に沈み、失われました。建立当時に日本一の大きさと言われたメインの碑は倒壊、何とか陸上に引き上げられたものの、その後長らくそのままでした。
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令和2年(2020)に、碑は再建。コロナ禍のため中止を余儀なくされていた女川光太郎祭も、昨年復活しました。

震災後の女川町での大きな動きの一つとして、「いのちの石碑」の建立が挙げられます。町内21箇所の津波到達地点より高い場所に避難の目印となるよう建てられたもので、震災の年に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちが発案しました。
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建立資金の1,000万円は、光太郎文学碑に倣い、募金で集められました。
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令和3年(2021)には予定の全21基が設置完了しました。
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今年3月6日(水)の『読売新聞』さん。全国の「自然災害伝承碑」を取り上げた記事の中で、「いのちの石碑」についてもご紹介下さいました。長大な記事ですので、抜粋で。

全国に2000基超…「伝承碑」から学ぶ大災害の教訓

 東日本大震災から間もなく13年になる。元日には能登半島地震があり、最近は千葉県東方沖でも地震が続いている。寒波の後に初夏のような陽気になり、大雪に大雨、雪崩も起きる。異常気象や災害の激甚化を肌で感じることが増えているように思えてならない。
 日本は昔から自然災害が多かった。われわれの先祖は災害を忘れないよう、その教訓を後世に残そうとしてきた。過去に災害が起きた場所の地名にも先人の教訓が込められていることは、過去にこのコラムでも取り上げたが、もっとわかりやすく災害の教訓を今に伝える遺産がある。全国各地に建つ、過去の風水害や地震を伝える伝承碑(自然災害伝承碑)だ。

きっかけは西日本豪雨で撮られた1枚の写真
  国土地理院は5年前から、新たな地図記号を制定して、自治体などに呼びかけて、伝承碑を地図に掲載する取り組みを続けている。登録された伝承碑は今年2月末で全国598市区町村の2085基に達した。
  どこに、どんな伝承碑があるのかは、誰でも見ることができる。
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地理院地図とともに全国の自然災害伝承碑を見る
  国土地理院がこの取り組みを始めたきっかけは、2018年の西日本豪雨の際、広島県坂町で撮影された1枚の写真だった。土砂に押しつぶされた家で災害救助活動を行う大阪府警の警察官を見下ろすように建っていたのは、高さ3メートルの伝承碑。明治40年(1907年)7月15日、旧坂村を土石流が襲い、「人々不暇逃避(人々は逃げる暇もなく)」46人の命が奪われたことを伝えていた。
 西日本豪雨では、碑が建つ坂町の小屋浦地区に避難勧告が出されたにもかかわらず、地区の住民の避難率は、坂町全体の半分程度にとどまった。多くの住民は石碑の存在は知っていたが、漢文で記された内容を把握していた人は少なかったという。
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 国土地理院で地図掲載の取り組みを進めている環境地理情報企画官の吉武勝宏さんは、「地元の伝承碑の存在を知ることは、身近な災害の危険を知る助けになる。ハザードマップなどと合わせて地図を見ることにより、さらに理解が深まる」と話す。地図を見ていくと、それぞれの伝承碑に込められた先人の警告や、われわれがそれを生かしているかどうかも垣間見ることができる。とても2000基は紹介できないが、伝承碑から何がわかるかを北から見ていこう。
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(略)
 繰り返し津波被害にあった東北地方太平洋沿岸には多くの伝承碑が建ち、岩手県田野畑村のように、明治29年(1896年)の明治三陸地震と昭和8年(1933年)の昭和三陸地震、そして東日本大震災の伝承碑が並び建つところもある。
 明治、昭和の三陸地震で2度とも集落が全滅した岩手県宮古市重茂姉吉地区の住民は、大津波記念碑に記された「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、 此処ここ より下に家を建てるな」という教訓を守ってきたため、東日本大震災では家屋に被害が出なかった。
 東日本大震災関連では、東北地方の太平洋沿岸を中心に128基の伝承碑が建てられている。高さ14.8メートルの津波に襲われた女川町では、女川第一中学校(現・女川中)の生徒らが地域住民の協力を得て、町内で確認できた津波到達点21か所に「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓を記した「女川いのちの石碑」を建てた。
  全国の伝承碑で最も新しい災害に関する伝承碑は宮城県丸森町などにある令和元年の東日本台風に関するものだ。今後は地球温暖化の影響で、これまでは少なかった東北での豪雨・台風災害にも警戒が必要になるだろう。
(略)
 全国の伝承碑に込められた共通の思いは、過去の記録を継承していくことは防災意識を高め、忘れたころにやってくる天災への備えになる、ということだ。あなたの身の回りにも、まだまだ草むらに埋もれた伝承碑があるかもしれない。

ただ、逆に「「災禍を思い出したくない」「地価が下がってしまう」といった住民の声に配慮して、登録を見送っている自治体もある」とのこと。

難しい問題ですね。

難しい問題といえば、震災後の女川町での大きな動きのもう一つ、女川原発の再稼働。『朝日新聞』さん、今朝の「天声人語」。

(天声人語)311への手紙

宮城県女川町を見下ろす丘の上で、これを書いています。いかがお過ごしですか? あの日と同じように、さっきまで小雪が風に舞っていました。あなたたちを忘れぬようにという空からのメッセージでしょう▼東日本大震災の1カ月後に、ここから見た光景を思い出します。視界いっぱいのがれき。3階建てのビルの屋上に自動車が場違いに転がっています。あなたをさらった津波が残したのでしょう。街全体が沈み、道は海の中へ続いているかのようです。女川原発は、最悪の事態をなんとか免れました▼原発に重大事故が起きたら車で避難を。車のない人は、県や自治体が用意したバスなどが来るまで待って――。震災後につくられた各地の避難計画はそう言います。国も内容を了承しました▼計画を発動しなければならない時、どんな光景が目の前に広がっているか。そうした対応が可能か。自治体も、国も、裁判所も、知らないはずがありません。たった13年前のことです。能登半島でも道が崩れ、救援が立ち往生するさまを見ました▼なぜでしょう。あなたたちの命の代わりに学んだはずのことが、なぜこんなふうになってしまうのでしょう。女川原発は秋にも再稼働するそうです。復興の街を風がただ吹きぬけてゆきます▼いや問うべき相手はあなたでなく、遺(のこ)された私たち自身でしたね。震災後の社会をつくったのは私たちなのですから。それでは、またお便りします。この丘からならば、きっと届くと信じています。

またお便りします」の文面が、最悪の内容にならないよう、祈らずには居られません。

【折々のことば・光太郎】

二日には書初めをやりませう。廿九日には畠山さんに進呈するため半切大の紙に「天地寿」と書きました。


昭和21年(1946)12月31日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「畠山さん」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村在住の日本画家・畑山崇山。子息の崇一は光太郎の影響で詩作にも取り組みました。
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3.11の今日、「天地寿」と本当に言える日が来ることを願って已みません。