地方紙掲載記事から2件、ご紹介します。
まず、『長野日報』さん。
光太郎智恵子と交流の深かった、尾崎喜八。没後50年ということで、改めて脚光を浴びつつあるようで、昨年末には同趣旨の記事が『毎日新聞』さんにも。
令孫にあたられる石黒敦彦氏、光太郎と喜八に関する新刊書籍の刊行などを考えられているようで、来(きた)る4月2日(火)の連翹忌の集いにてその件をお話下さるそうです。ありがたし。
もう1件、『岩手日報』さんから。
入賞句それぞれの評が載っていたのですが、光太郎がらみのもののみ抜粋しました。もっとも、句自体が完全に光太郎オマージュというわけではないようですが、おそらく審査員の方が評されたことを、作者の方も感じていたのではないかと思われます。
喜八の記事にしてもそうですが、光太郎を引き合いに出しても「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまいますと、成り立ちません。そうならないよう、今後とも顕彰活動に力を注いで参りますので、よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
今度詩碑には小生直接加筆して補正彫鏨する事になりました。多分十一月中には出来るでせう。
「詩碑」は昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑です。
ところが、さる高名な宗教学者のセンセイが、この改変を光太郎の仕業と思い込み、あちこちで喧伝しています。「違う」と指摘が相次いでも改める風もなく、超迷惑です。脳が硬直化すると、一度こうだと思い込んだことは訂正できなくなってしまうのでしょうか。そうはならないように努めたいものです。
まず、『長野日報』さん。
尾崎喜八、没後50年 その詩心を訪ねて
山や自然を愛した詩人、尾崎喜八(1892~1974年)が亡くなって、今年2月で50年になった。喜八は1946年9月から7年間、富士見に滞在した。その縁で茅野市豊平小、岡谷南高校(岡谷市)、富士見町富士見小学校など諏訪地域をはじめ、県内の小中学校、高校を中心に生涯で40を超える校歌を作詞し、今でも多くの児童・生徒たちに歌われている。激動の20世紀を生きた詩人の心の変遷を、「自註 富士見高原詩集」などを手掛かりにたどってみた。
■自然や人間を賛美する詩人
東京市京橋に生まれた喜八は、京華商業学校を経て中井銀行に就職。武者小路実篤や志賀直哉などが創刊した雑誌「白樺」の影響を受け、理想主義的な作風の下、自然や人間を賛美する詩人として出発した。
30歳で最初の詩集「空と樹木」を刊行すると、「道程」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎、フランスのノーベル文学賞作家ロマン・ロランとも手紙を通じて交流した。
喜八は夏の暮らしを描いた「高層雲の下」から「クリスマス」、「大根」に至るまで、日々の生活の景色と心情を自由な形で歌った。第5詩集「行人の歌」に納めた「私の詩」では、素朴な魂の人びと、日々の悪戦を戦う人びとに自分の詩を贈りたいとし、〈私は自分の詩によって 彼らの楽しい伴侶でありたい〉と願った。
自然観察の成果を集めた随筆集「山の絵本」、独学でドイツ語を習得してヘルマン・ヘッセの翻訳も刊行し、旺盛な文学活動を展開。大正期の自由主義的雰囲気が去り、昭和初年の世界恐慌、ファシズムと戦争のにおいが濃くなる中、配給の芋を題材にした「此の糧」、銃後の民衆を歌った「同胞と共にあり」を書名に選んだ詩集も出版した。
■敗戦で心に傷 生き直す決心
しかし日本は1945年8月に敗戦を迎え、精神的に傷を負う。「慙愧と後悔」から世の中や過去から離れ、「全く無名の人間として生き直すこと」を願い、46年9月に元伯爵渡辺昭が富士見高原に所有していた別荘「分水荘」へと移り住む。〈人の世の転変が私をここへ導いた。 古い岩石の地の起伏と めぐる昼夜の大いなる国、〉(「土地」)へとやって来た。
富士見の地で「春の牧場」「夏の小鳥が……」「或る晴れた秋の朝の歌」など高原の四季を折り込んだ詩を創作。厳しく美しい自然と、その中にあって貧しくもひたむきに生きる人びとの賛歌を詠んだ。自らの心情を書名に掲げ55年に刊行した詩集「花咲ける孤独」は、遅咲きの詩人の後期を代表する作品となった。
一方で地元の人との温かい交流も生まれ、講演のほか校歌制作も依頼されるようになる。県内では旧岡谷南部中(49年制定)、信大付属松本中(51年)岡谷南高校(52年)茅野市豊平小(同)などを手掛け、今も多くの学校に歌碑が立つ。
喜八は校歌作詞の思い出をつづった文章で、「書く前に必ず一度はその学校まで行って、そこの校庭のまんなかに立って周囲の風景だのを見ないと気が済まない」とし、北海道の1校を除き、「その他はどんな山間僻地へもすすんで出掛けた」と振り返った。
■書く前に必ず訪れイメージ
多くの校歌がそうであるように、喜八の詞も1番は山川草木など身近な自然の情景が歌われ、2、3番と続くにつれ、理想や希望への意志が込められる。豊平小の2番は〈清くけだかい白樺を 朝な夕なの校庭に 遠い古人の生活を しのぶ遺跡は村のうち 歴史と知恵のふるさとに うまれて学ぶうれしさよ〉とある。
富士山、八ケ岳、校章のモチーフ駒草が詠われた岡谷南高の3番は〈真夏を山に鍛えては 氷に冬を楽しみつ 平和文化に国を成す 理想のもとに学ぶなる 見よや我等が愛する母校 岡谷の南高等校 月雪花の信濃路に 誉の其の名わが母校〉と結ばれる。
52年11月に東京都世田谷区、66年12月に神奈川県鎌倉市に居を移すも、富士見高校(56年)、旧富士見高原中(60年)、茅野市永明中(63年)、岡谷南部中(64年)、そして40校目に富士見小(72年)の校歌を作った。
富士見小の3番は〈理想は高い空の雲 心は広い地のながめ 両親、仲間、先生たちの 愛の思い出富士見高原 ここに学んで人と成る日も幼な心の帰るふるさと このふるさとを忘れまい〉。喜八によると、「詩は言葉と文字の芸術であると同時に作者の心の歌でもある」。校歌もまた詩の一つであると考えた喜八にとって、この連は富士見で過ごした日々を想起した”心の歌”であったかもしれない。
■言葉の探求は今もこの地で
富士見町高原のミュージアムには喜八の自筆原稿、愛用のカメラ、自然観察に使用した双眼鏡、登山靴など寄贈資料から成るコーナーがある。島木赤彦や伊藤左千夫など多くの歌人や文人にゆかりがある同町では、毎年秋に詩の心を後世につなげる「富士見高原詩のフォーラム」が開かれる。自分の心を凝視し、自然と一致する瞬間を見つけようとする言葉の探究は、今も富士見の地で続けられている。
光太郎智恵子と交流の深かった、尾崎喜八。没後50年ということで、改めて脚光を浴びつつあるようで、昨年末には同趣旨の記事が『毎日新聞』さんにも。
令孫にあたられる石黒敦彦氏、光太郎と喜八に関する新刊書籍の刊行などを考えられているようで、来(きた)る4月2日(火)の連翹忌の集いにてその件をお話下さるそうです。ありがたし。
もう1件、『岩手日報』さんから。
「ぼくのほそ道」俳句大会選考会
岩手日報社「ぼくのほそ道」俳句大会の受賞句が決まった。対象句は応募句506句の中から一次選考を通過した60句。選考会は盛岡市内丸の同社で開かれ、俳人の白濱一羊さん、高野ムツオさん、文化部の戸舘大朗記者が作品を合評した。入選 きらきらとぼくのほそ道雪踏めば 奥州・岩渕正力
高野 これは話題にしないといけないんじゃないですか。
戸舘 とてもうれしい一句です。ありがとうございます!
白濱 「挨拶句」ですね。連載名の言葉を詠み込んで、ちゃんと句になっている。
高野 雪を踏んだら、あるはずもないが、ぼくのほそ道が現れて、見えた気がした。発想がいい。
戸舘 自らの「ほそ道」を歩いているという句ではない?
高野 雪を踏む、でなく雪踏めば、だからね。この表現だと、踏んで現れた、という意味だろう。
白濱 高村光太郎みたいだね。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
「ぼくのほそ道」俳句大会、「ぼくの」と冠されているので、若い世代対象の企画かと思ったのですが、さにあらずでした。入賞句それぞれの評が載っていたのですが、光太郎がらみのもののみ抜粋しました。もっとも、句自体が完全に光太郎オマージュというわけではないようですが、おそらく審査員の方が評されたことを、作者の方も感じていたのではないかと思われます。
喜八の記事にしてもそうですが、光太郎を引き合いに出しても「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまいますと、成り立ちません。そうならないよう、今後とも顕彰活動に力を注いで参りますので、よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
今度詩碑には小生直接加筆して補正彫鏨する事になりました。多分十一月中には出来るでせう。
昭和21年(1946)10月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳
「詩碑」は昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑です。
まだ東京にいた最初の揮毫の際、花巻から送られてきた原稿の通りに揮毫したところ、賢治が手帳に書いた通りでなかった箇所が複数ありました。そこで、碑前に足場を組んで訂正箇所を光太郎が直接書き込み、石工の今藤清六が鏨(たがね)で彫りました。
賢治が元々手帳に「ヒドリ」と書いていた箇所は「ヒデリ」のまま残されました。光太郎が最初に揮毫した昭和11年(1936)の時点で、遺族等の間で既に「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記だろうという説が半ば定説化しており、光太郎は花巻から送られてきた原稿が「ヒデリ」となっていたそのままを書いたわけです。ところが、さる高名な宗教学者のセンセイが、この改変を光太郎の仕業と思い込み、あちこちで喧伝しています。「違う」と指摘が相次いでも改める風もなく、超迷惑です。脳が硬直化すると、一度こうだと思い込んだことは訂正できなくなってしまうのでしょうか。そうはならないように努めたいものです。