岩手レポート2回目です。

2月12日(月)、郊外旧太田村の高村光太郎記念館/高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんを廻り、再びレンタカーを市街に向けました。

次なる目的地は南万丁目地区の「わいんさっぷ」さん。
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以前はカレー屋さんとして営業なさっていましたが、現在は閉店されているとのこと。こちらはリンゴ園の一角です。
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リンゴ園を開かれたのが、故・阿部博氏。花巻農学校での宮沢賢治の教え子で、宮沢家を通じて光太郎とも知り合い、交流を重ねました。おそらく光太郎もここに足を運んでいます。
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子息の阿部弥之氏は、宮沢賢治花巻市民の会会長、宮沢賢治学会副代表などを歴任された方。光太郎についても花巻高等看護専門学校さんで特別講義をなさいました。昨年10月には、宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催された「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」の際にパネラーのお一人として登壇されています。当方はコーディネーターでした。

その阿部氏を中心に、花巻とその近隣の方々で「光太郎を知る会」という会を結成、花巻に疎開してからの光太郎日記を会員の皆さんで読み合わせしたりといった活動をなさっているそうです。他にもいろいろと光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCの方、花巻南高校文芸部さんの顧問の先生などもメンバーです。

で、そちらの会に招かれまして、参上した次第です。
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会員の皆さんが日頃から疑問に思われていることを挙げてもらい、当方が質問に答えたりといった形で進めました。

印象的だったのは、光太郎の花巻及び郊外旧太田村での足かけ8年、特に太田村での戦後のまる7年の位置づけに関して。リアルタイムでは当会の祖・草野心平らがとにかく早くその生活を切り上げて帰京するように繰り返し催促していました。光太郎実弟の豊周も光太郎の世話をしてくれた人々に感謝しつつも、特に彫刻の部分で空白となったこの時期が惜しいとか、光太郎の寿命を縮めた年月だったかもしれないとか回想に残しています。地元の皆さんにとってはそれが悔しい、というわけで。

なるほど、そういう見方もあるか、という感じでした。で、当方の返しは、「光太郎が戦争責任を含め、自分を見つめ直すためにどうしても必要な時間だった」。光太郎は繰り返し「脱却」という言葉を使いましたが、1年やそこらでは「ほんとに「脱却」できたのかよ、早すぎるだろ」という感じです。やはり7年という長さに重みを感じざるを得ません。豊周の言い分ももっともですが。

閉会後、リンゴ園の敷地内にある光太郎碑を拝見。
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昭和62年(1987)に建立されたもので、光太郎が故・博氏に贈った「酔中吟」という即興詩が刻まれています。
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 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に
 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光紅玉デリシヤス

「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。親しみを込めてそう呼んだわけですね。

当方、こちらの拝見は3度目でした。最初は平成の初め頃。その際は一面識もなかった阿部氏のご自宅に突撃訪問し、案内していただきました。2度目は花巻市さん主催の市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で講師を務めさせていただいた際。それももう5年前になるか、という感じでした。

その後、定宿の大沢温泉さんへ。
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着いてすぐ、真夜中、さらに翌早朝と、3回、温泉を愉しみました。

2月13日(火)となり、大沢温泉さんから午前7時30分頃出立しました。午前11時に花巻市役所近くでやつかの森LLCの皆さんとお会いする約束でしたが、それまでどうしようかというところで、ふと思い立ち、レンタカーを東に向けました。目指すは沿岸の釜石市。昭和6年(1931)、光太郎が紀行文「三陸廻り」執筆のため船で訪れた街です。それを記念して平成7年(1995)には「三陸廻り」の釜石を訪れての一節を刻んだ文学碑が建立されました。建立された頃拝見に伺ったのですが、その後御無沙汰しており、いずれまたと思っておりました。
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平成31年(2019)には花巻-釜石間の東北横断自動車道が全線開通し、概算で1時間ちょっとで着けそうだな、というわけで、その通り午前9時頃に到着しました。
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釜石駅。

NHKさんの「あまちゃん」で一躍有名になった三陸鉄道、通称「三鉄」さん(「あまちゃん」では「北鉄」)。
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光太郎碑は市街地の只越町というところにあったはずで、そちらに向かいました。約30年前には意外とすぐに見つけられました。しかし、街の様子が一変していて、戸惑いました。まぁ、何もなくても30年経てばいろいろ変わるでしょうし、何と言っても平成23年(2011)の東日本大震災がありましたから。その爪痕を物語るもろもろ。
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青いプレートは津波がここまで来たよという目印です。
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午前11時には花巻に戻らねばならず、30分程探し、石川啄木の歌碑などは見つかったのですが、結局、光太郎碑は発見できずでした。もしかすると津波で流されたり、損壊したので撤去されたりしたのかもしれません。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。

というわけで、午前11時、花巻に戻ってやつかの森LLCの皆さんと会食。その席上、6月にはまたイベントを開きたいというようなお話がありました。詳細が出ましたらまたご紹介します。

以上、岩手レポートを終わりますが、明日以降も地元で仕入れてきた花巻ネタ等を取り上げます。

【折々のことば・光太郎】

身のまはりの品など可笑しい程簡単ですが不自由といへば不自由、又自由といへば結構自由です。電燈なくランプとローソクです。


昭和21年(1946)9月13日 西岡文子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村での7年間、まさに「不自由といへば不自由、又自由といへば結構自由」。禅問答のようですが(笑)。