「めぐみネット 共同通信アグリラボ」というサイトに出ていた記事です。共同通信さんの関係なので、全国の地方紙いくつかには掲載されたのではないでしょうか。ご執筆は日本離島センター専務理事・小島愛之助氏。 

よんななエコノミー 震災からの復興と離島振興 宮城県女川町

013 元日に能登半島地震が起きると、宮城県女川町は6日、備蓄していたアルファ米や野菜ジュース、ポリタンク、非常用飲料水袋など生活物資を被災した石川県志賀町に提供し、その3日後には副町長ら職員4人を現地に派遣した。女川町は、東日本大震災の復興支援で志賀町から2015年度に事務員、19年度に保健師の派遣を受けており、同じ被災地として手を携えていこうとしている。
 その東日本大震災によって女川町も壊滅的な被害を受けたが、「あたらしいスタートが世界一生まれる町へ。START! ONAGAWA」をスローガンに、急ピッチで復興まちづくりを行ってきた。その効果もあって、女川駅や駅前商店街(シーパルピア女川)を中心として、かつてのにぎわいが戻ってきている。また、大震災の被害を千年後まで伝え、命を守りたいという思いから、町内21カ所には「いのちの石碑」が建っている。この石碑は、大震災の年に中学校に入学した子どもたちがプロジェクトを立ち上げ、建設資金の調達や石碑のデザインなどを行ったものである。
 女川町には、人口が50人足らずの江島と約90人の出島の二つの有人離島があるが、このうち出島を今回は紹介したい。出島は、女川町の沿岸から一番近いところで300メートルほどしか離れていない。そのため、本土と島を結ぶ全長364メートルの橋を建設する出島架橋の整備事業が17年からスタートし、昨年11月に橋の中央部分が設置された。今後、道路の整備などが進められ、ことし12月に開通する予定である。
 出島への交通アクセスは、シーパル女川汽船の「しまなぎ」で女川港から20分。出島架橋が開通すれば、女川の市街地から車で15分に短縮されるという。時間・距離の短縮はもちろんのこと、病気やけがなどの緊急時にすぐ搬送できないという問題が解消し、住民の安心な生活につながるという点も大きい。一大漁業基地であり、釣り客のメッカでもある島と本土が陸路でつながることで、島の産業が継続的に営まれていくというメリットも多大である。
 出島には縄文時代の配石遺構があり、「出島ストーンサークル探検ツアー」の実施主体となっている「一般社団法人 女川未来会議出島プロジェクト」は、架橋後の町施設の管理をはじめとして、島の観光など各種事業の発展と創出に関わる支援を行うことにあるという。
 同プロジェクトの代表理事を務める高野信さんは福島県郡山市出身の元教員。定年後に教員時代の上司の故郷である出島に半ば移住した。架橋の効果も相まって、離島観光が女川町の復興に大きく寄与することを期待したい。

昭和6年(1931)に光太郎が訪れ詩文を残したゆかりの町として「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。東日本大震災では甚大な被害でしたが、その後、記事にあるとおり、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、10年以上かけて町内の海岸沿いの高台等に全21基の「いのちの石碑」が建てられました。
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そういう女川町さんですので他人事ではないと、能登半島地震に被災地に対しての素早い支援。記事は先月のものですので「6日」とあるのは地震発生から5日後の1月6日(土)です。素晴らしい。

その背景には、東日本大震災の折に、今回大きな被害のあった志賀町さんから支援を受けていたお返し的な要素もあるとのこと。まさに「情けは人のためならず」。ちなみにこのことわざ、「他人に情けをかけるとそのひとが甘えてしまって結局はその人のためにならないから控えるべきだ」という意味だと誤用されることが多いそうですが、正しくは「常日頃から他人に情けをかけておけば、いざ自分が困った時にそれが返ってくる」という意味ですね。だからといってそれを期待して「常日頃から他人に情けをかけておこう」というのでもなく、逆に考えれば「常日頃から他人に反感を買いまくっている輩はいざという時にも助けてもらえないよ」ということになるのかもしれません。

その他にも東日本大震災の被災地から、今回の能登半島地震の被災地への支援が続々という報道をよく目にします。まだまだこの国も捨てたもんじゃないなと思う今日この頃です。

記事内容に戻りまして、女川町の友人離島の一つ、出島(いずしま)。こちらには女川光太郎祭を主催されている「女川光太郎の会」の須田勘太郎会長がお住まいです。一度渡ってみようと思いつつなかなか果たせないでいるのですが、記事にある今年開通するという橋が完成すればすぐに行ける感じになりますね。ちなみに出島にも「いのちの石碑」が建立されています。
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3.11もあと1ヶ月ほど。13年経ちますが、福島の原発周辺など、いまだに復興の進まない地域もありますし、その後も今回の能登半島や熊本など地震の被害は後を絶ちません。それでもその都度、過去の教訓を生かしてやっていくしかないのだろうなと思います。

【折々のことば・光太郎】

どうか十分に治療を尽してください。牛乳などは三里塚の事だからたくさんあるのだらうと思つてゐますが、あびる程のんでください。日本には以前から牛乳が少くて一般人の健康にかなり影響してゐたと思ひます。岩手地方はすべて酪農にするといいと考へてゐます。


昭和21年(1946)8月24日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

千葉成田の三里塚に居た親友・水野葉舟宛書簡から。葉舟は結核性の肋膜炎で翌年には没します。光太郎、この頃から食と健康に関する発言が目立つようになります。家庭菜園に毛が生えた程度とはいえ、まがりなりにも農業に従事するようになったことが大きいのでしょう。