新刊です。
小津夜景氏という方、寡聞にして存じませんでしたが、注目の女流俳人だとのことです。いわゆる結社等には所属しない立場でやられているそうで、へそ曲がりの当方としてはシンパシーを感じます(笑)。
その小沢氏のエッセイ集ですが、目次にある通り「『智恵子抄』の影と光」という項を含みます。『智恵子抄』との出会い、その後、そして現在の『智恵子抄』とご自身、といった感じです。
出会いは意外なところからだったそうです。氏が小学6年生の折、当時ファンだったチェッカーズさん関連の書籍を読まれていて、その中にあったメンバーの武内享氏のインタビューで武内氏が愛読書として『智恵子抄』をあげられていたこと。それを読んでいたかたわらにお母さまがいらしたそうで、
「ねえ、おかあさん」
「なに」
「高村光太郎の『智恵子抄』って知ってる?」
「本棚にあるわよ」
なんと。
素晴らしいお母さまですね。ここで「誰、それ?」「聞いたことない」となっていたら、話は終わってしまったかもしれないわけで。
そして小6当時の小津氏も素晴らしい。「知らない漢字だらけ」であったにもかかわらず、「辞書を引き、一字一句を拾うようにして」読まれたそうです。そして「かくして『智恵子抄』は自分にとって特別な詩集となった」とのこと。
それにしてもチェッカーズのメンバーの方が『智恵子抄』を愛読書と答えて下さっていたことは存じませんでした。沢田研二さん、山口百恵さんなど、芸能界にそういう方は結構いらっしゃいますが。それから小津氏のエッセイでこれも初めて知ったのですが、かの「ドラえもん」で、のび太のパパが若い頃、ママへのラブレターに『智恵子抄』所収の「郊外の人に」(大正元年=1912)を綴ったというエピソードがあったそうです。
しかし小津氏、こうも述べられています。
とはいえ、告白しておいたほうがいいだろう。こうまでして読みはしたものの、わたしは一度たりとも『智恵子抄』をいいと思ったことがないってことを。もっと率直にいえば大嫌いである。
「あ゛?」と思いました。ここから先、いわゆるジェンダー論者の方々のように、男尊女卑の権化光太郎、的なディスりが始まるのか? と。
しかしさにあらずでした。「レモン哀歌」(昭和14年=1939)などを筆頭に、素晴らしい作品群であることは認めつつも、ある種の信用できなさが感じられる、というのです。
ある意味、妥当な見解と思われます。
「レモン哀歌」は宮沢賢治の「永訣の朝」などとの類似点が夙に指摘されてきました。光太郎は智恵子、賢治は妹のトシと、それぞれ最愛の大事な人を亡くした慟哭が謳われている点等々。しかし、そのスタンスはやはり異なりますね。「永訣の朝」はトシを失った悲しみがとにかくこれでもか、これでもかとダダ漏れになっている状態ですが、「レモン哀歌」は、それがいいか悪いかは別として、一つ高い次元からの視点で智恵子の最期を謳っているように感じます。「もっと泣けよ、喚けよ、智恵子が死んだんだぞ」と突っ込みたくなるような。
その理由としては、いろいろ考えられます。「レモン哀歌」執筆が智恵子の死の約4ヶ月後であること、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)10月5日まで、およそ五ヶ月も見舞いに行っていなかったことなどなど。
「レモン哀歌」自体も、「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」と結ばれますが、執筆は2月。桜など咲いていません。これは雑誌『新女苑』への掲載が4月とわかっていたため、その季節に合わせて架空の桜を持ち出したという説があります。おそらくそれで正解でしょう。ただし、やがて4月には実際に「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置」いたのだとは思いますが……。
小津氏、そうしたある種のうさん臭さを、俳人としての優れた感性で敏感に感じ取られたのではないかと思われます。この手の批判的な読みは大歓迎ですね(って、当方は光太郎ではありませんが(笑))。逆に手放しで「類い希なる純愛の詩集」「日本文学史上に燦然と輝く相聞歌」などと評されると、興醒めです。といって、ジェンダー論者の方々のようにその背景もろくに調べずディスりまくりや、自分以外は全員バカだと思っているようなとにかく「批判」だけの自称・研究者などは論外ですが。
一昨日届いたばかりで、他の項はまだ斜め読み状態です。それでも、だいぶ生きづらさを抱えて歩んでこられた方なのだな、というのはわかりました。今日、公共交通機関に長く乗って上京しますので、その行き帰りに精読しようと存じます。
皆様もぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
此間のお茶のおかげで此頃は朝一杯の煎茶がのめるので爽快を感じます。
戦後の物資不足の折、花巻郊外旧太田村に引っ込んだ光太郎を案じ、ほうぼうの友人知己がいろいろなものを送ってくれていました。茶は岩手県では産出されず、現在もそうですが、岩手の人々は食事の際に茶を飲むという習慣もないそうで、入手が困難。茶好きの光太郎は真壁からの茶を実に有り難く思ったようです。
ロゴスと巻貝
2023年12月27日 小津夜景著 アノニマ・スタジオ刊 定価1,800円+税注目の俳人、小津夜景さんが綴る人生と本の記憶
山本貴光さん(文筆家・ゲーム作家)推薦
細切れに、駆け足で、何度でも、這うように、本がなくても、わからなくてもーー読書とはこんなにも自由なのですね、小津さん
注目の俳人小津夜景さんは、選び取る言葉の瑞々しさやその博識さが魅力。本書では、これまでの人生と本の記憶を、芳醇な言葉の群で紡ぎ合わせる。過去と現在、本と日常、本の読み方と人との交際など、ざっくばらんに綴った40篇。
目次
それは音楽から始まった
握りしめたてのひらには
あなたまかせ選書術
風が吹けば、ひとたまりもない
ラプソディ・イン・ユメハカレノヲ
速読の風景
図書館を始める
毒キノコをめぐる研究
事典の歩き方
『智恵子抄』の影と光
奇人たちの解放区
音響計測者(フォノメトログラフィスト)の午後
再読主義そして遅読派
名文暮らし
接続詞の効用
恋とつるばら
戦争と平和がもたらすもの
全集についてわたしが語れる二、三の事柄
アスタルテ書房の本棚
残り香としての女たち
文字の生態系
明るい未来が待っている
自伝的虚構という手法
ゆったりのための獣道
翻訳と意識
空気愛好家の生活と意見
わたしの日本語
ブルバキ派の衣装哲学
わたしは驢馬に乗って句集をうりにゆきたい
そういえばの糸口
月が地上にいたころ
存在という名の軽い膜
プリンキピア日和
軽やかな人生
料理は発明である
クラゲの廃墟
人間の終わる日
本当に長い時間
梨と桃の形をした日曜日のあとがき
引用書籍一覧
小津夜景氏という方、寡聞にして存じませんでしたが、注目の女流俳人だとのことです。いわゆる結社等には所属しない立場でやられているそうで、へそ曲がりの当方としてはシンパシーを感じます(笑)。
その小沢氏のエッセイ集ですが、目次にある通り「『智恵子抄』の影と光」という項を含みます。『智恵子抄』との出会い、その後、そして現在の『智恵子抄』とご自身、といった感じです。
出会いは意外なところからだったそうです。氏が小学6年生の折、当時ファンだったチェッカーズさん関連の書籍を読まれていて、その中にあったメンバーの武内享氏のインタビューで武内氏が愛読書として『智恵子抄』をあげられていたこと。それを読んでいたかたわらにお母さまがいらしたそうで、
「ねえ、おかあさん」
「なに」
「高村光太郎の『智恵子抄』って知ってる?」
「本棚にあるわよ」
なんと。
素晴らしいお母さまですね。ここで「誰、それ?」「聞いたことない」となっていたら、話は終わってしまったかもしれないわけで。
そして小6当時の小津氏も素晴らしい。「知らない漢字だらけ」であったにもかかわらず、「辞書を引き、一字一句を拾うようにして」読まれたそうです。そして「かくして『智恵子抄』は自分にとって特別な詩集となった」とのこと。
それにしてもチェッカーズのメンバーの方が『智恵子抄』を愛読書と答えて下さっていたことは存じませんでした。沢田研二さん、山口百恵さんなど、芸能界にそういう方は結構いらっしゃいますが。それから小津氏のエッセイでこれも初めて知ったのですが、かの「ドラえもん」で、のび太のパパが若い頃、ママへのラブレターに『智恵子抄』所収の「郊外の人に」(大正元年=1912)を綴ったというエピソードがあったそうです。
しかし小津氏、こうも述べられています。
とはいえ、告白しておいたほうがいいだろう。こうまでして読みはしたものの、わたしは一度たりとも『智恵子抄』をいいと思ったことがないってことを。もっと率直にいえば大嫌いである。
「あ゛?」と思いました。ここから先、いわゆるジェンダー論者の方々のように、男尊女卑の権化光太郎、的なディスりが始まるのか? と。
しかしさにあらずでした。「レモン哀歌」(昭和14年=1939)などを筆頭に、素晴らしい作品群であることは認めつつも、ある種の信用できなさが感じられる、というのです。
ある意味、妥当な見解と思われます。
「レモン哀歌」は宮沢賢治の「永訣の朝」などとの類似点が夙に指摘されてきました。光太郎は智恵子、賢治は妹のトシと、それぞれ最愛の大事な人を亡くした慟哭が謳われている点等々。しかし、そのスタンスはやはり異なりますね。「永訣の朝」はトシを失った悲しみがとにかくこれでもか、これでもかとダダ漏れになっている状態ですが、「レモン哀歌」は、それがいいか悪いかは別として、一つ高い次元からの視点で智恵子の最期を謳っているように感じます。「もっと泣けよ、喚けよ、智恵子が死んだんだぞ」と突っ込みたくなるような。
その理由としては、いろいろ考えられます。「レモン哀歌」執筆が智恵子の死の約4ヶ月後であること、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)10月5日まで、およそ五ヶ月も見舞いに行っていなかったことなどなど。
「レモン哀歌」自体も、「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」と結ばれますが、執筆は2月。桜など咲いていません。これは雑誌『新女苑』への掲載が4月とわかっていたため、その季節に合わせて架空の桜を持ち出したという説があります。おそらくそれで正解でしょう。ただし、やがて4月には実際に「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置」いたのだとは思いますが……。
小津氏、そうしたある種のうさん臭さを、俳人としての優れた感性で敏感に感じ取られたのではないかと思われます。この手の批判的な読みは大歓迎ですね(って、当方は光太郎ではありませんが(笑))。逆に手放しで「類い希なる純愛の詩集」「日本文学史上に燦然と輝く相聞歌」などと評されると、興醒めです。といって、ジェンダー論者の方々のようにその背景もろくに調べずディスりまくりや、自分以外は全員バカだと思っているようなとにかく「批判」だけの自称・研究者などは論外ですが。
一昨日届いたばかりで、他の項はまだ斜め読み状態です。それでも、だいぶ生きづらさを抱えて歩んでこられた方なのだな、というのはわかりました。今日、公共交通機関に長く乗って上京しますので、その行き帰りに精読しようと存じます。
皆様もぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
此間のお茶のおかげで此頃は朝一杯の煎茶がのめるので爽快を感じます。
昭和21年(1946)4月19日 真壁仁宛書簡より 光太郎64歳
戦後の物資不足の折、花巻郊外旧太田村に引っ込んだ光太郎を案じ、ほうぼうの友人知己がいろいろなものを送ってくれていました。茶は岩手県では産出されず、現在もそうですが、岩手の人々は食事の際に茶を飲むという習慣もないそうで、入手が困難。茶好きの光太郎は真壁からの茶を実に有り難く思ったようです。