昨年12月22日(金)、『日本経済新聞』さんの記事から。
12月25日(月)に行われた奄美群島の米軍統治下からの日本復帰70周年記念式典に先立ち、復帰運動を主導した泉芳朗の功績を振り返るといったコンセプトの記事です。
徳之島の伊仙村(現伊仙町)出身で、戦後は名瀬市長も務めた泉ですが、戦前は教員を務めるかたわら詩人としても活動し、10年ほどは東京に在住していました。その頃光太郎とも親交を結び、光太郎も出席した座談会の司会を務めたり、自身の主宰する雑誌の題字を光太郎に揮毫して貰ったりした他、光太郎と同じ書籍や雑誌に寄稿することもしばしばでした。戦後も光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手から帰京した直後の昭和27年(1952)に、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問しています。くわしくはこちら。
先月の奄美群島の日本復帰70周年。今一つ報道されなかったように感じています。九州の地方紙などでは改めて占領下を振り返る特集記事などが出ていましたが……。沖縄が永らく米軍統治の扱いだったことは歴史の教科書にも記載がありますが、小笠原諸島、そして奄美群島もそうであったことは忘れられつつあるように思われます。ウクライナの件など、世界的にも領土問題が顕在化しているこの時期、過去に学ぶ必要をひしひしと感じるのですが……。
【折々のことば・光太郎】
おハガキ二通及「週刊朝日」二冊、珍しい新聞一束拝受、ありがたく存じました。 小屋の写真はよくうつつてゐると思ひました。談話の筆記は所々間違へたりしてゐます。ともかく、こんな小屋に独居自炊してゐると思つて下さい。人家からは三丁程離れた山腹で下に見える湧き水の水を汲んで炊事してゐます。勝手元の厨芥を夜兎が来てたべるやうです。鼠は夕方遠くからやつて来て小生の座辺へも平気で来ます。大切なローソクをかぢるのは閉口です。
光太郎の元に送られた『週刊朝日』のうち、この年2月24日号(第48巻第7号)には、花巻郊外旧太田村の光太郎の暮らしぶりが紹介されました。この手の記事としては最も早い時期のものの一つです。
題して「雪にもめげず 疎開の両翁を東北に訪ふ」。故郷・山形に居た斎藤茂吉も紹介されています。
少し前にご紹介した佐高真氏著『反戦川柳人 鶴彬の獄死』の中で、歴史作家の藤沢周平が同郷の茂吉に対し、戦後も皇国史観から抜け出せず、戦争協力への反省も行わなかったことを痛烈に批判したことが紹介されています。また佐高氏もこう書いています。
光太郎より一つ年上だった茂吉は、一九四五年の四月に故郷に疎開し、大石田の名家の離れに住んだ。その時、茂吉六十三歳。妻子と離れての独居で病気をしたりもしているが、上下二部屋ずつある家で、光太郎の小屋とは比ぶべくもなかった。また、結城哀草果とか板垣家子夫とか、地元の歌の弟子が献身的に世話をしている。
日本復帰70年 「奄美のガンジー」泉芳朗を語り継ぐ
鹿児島県奄美地方で12月25日は特別な日だ。1946年のGHQ(連合国軍総司令部)の二・二宣言で、奄美を含む北緯30度以南の島々は米軍統治下におかれた。その後、奄美群島が悲願の日本復帰を果たしたのが70年前、53年のこの日だった。
復帰運動の先頭に立ったのが泉芳朗(ほうろう)(1905〜59年)だ。ハンガー・ストライキを実施し、復帰を訴えた姿からインドのマハトマ・ガンジーになぞらえ「奄美のガンジー」と呼ばれている。
私が代表を務める「泉芳朗先生を偲(しの)ぶ会」では、功績を後世に伝えようと記念碑建立や出前授業を行っている。設立したのは私の父、豊春だ。泉先生の秘書を務め、復帰運動をそばで支えた。59年に泉先生が亡くなったあとは、奄美群島の各市町村が12月25日を日本復帰記念日に制定するよう奔走した。私も幼いころから話を聞かされ、実際にお目にかかったこともある。当時は親戚のおじさんだと思っていた。
泉先生は、鹿児島県の徳之島出身。学校を卒業後、小学校で教員をする傍ら、詩作に打ち込んだ。28年に上京し、詩人の高村光太郎とも交友。再び島に戻った後は、教育者と詩人の二足のわらじで活動した。
外国となった奄美は本土への渡航が制限され、黒糖や大島紬(つむぎ)など特産品の流通も禁止された。生活は苦しく、島民は密輸や密航に手を染めた。復帰を望む声が東京在住の奄美出身者らから広がり、51年2月には奄美で復帰協議会が結成される。議長に就任したのが教育者として信頼を集めていた泉先生だった。
51年8月に泉先生は名瀬市(現鹿児島県奄美市)の高千穂神社で5日間の断食を決行し、多くの島民が後に続いた。泉先生の詩「断食悲願」には強い決意がにじむ。〈膝を曲げ 頭を垂れて/奮然 五体の祈りをこめよう/祖国帰心/五臓六腑の矢を放とう〉。詩の力は復帰運動を戦う島民の大きな力となり、うねりは一層大きくなった。
しかし、すぐには実を結ばなかった。52年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効され日本は主権を回復。北緯29度線以北の島々は復帰を果たしたが、奄美は依然、米軍統治下におかれた。この日は奄美では「痛恨の日」と呼ばれている。
その翌日、泉先生は子供たちの前に日本国旗を示し、祖国の旗を覚えておくよう呼びかけた。そのことで米軍から注意を受けた際、一歩も譲らず説き伏せたという。父はよくその場面をあげ、胆力のすさまじさを語っていた。同年には名瀬市長に当選し「市政と復帰一如」をスローガンに精力的に活動する。教育者、詩人、政治家の3つの顔で、島民を鼓舞し続けた。
53年8月にダレス米国務長官が奄美を日本に返す用意があると発表した「ダレス声明」を経て、その日はやってきた。同年12月25日、奄美は歓喜に沸いた。泉先生は「皆さん、これで八年の苦難は達成して、きょう、この日の我々は、本当の日本人になったのであります」と挨拶し、万歳三唱した。島民はちょうちん行列で喜びあった。
今年の復帰70周年の日にも、ちょうちん行列が予定され、当時の光景がよみがえるはずだ。奄美が米軍統治下にあったことを知らない世代も増えた。泉先生の功績とともに、先人たちの悲願の先に、今があることを伝えていきたい。
12月25日(月)に行われた奄美群島の米軍統治下からの日本復帰70周年記念式典に先立ち、復帰運動を主導した泉芳朗の功績を振り返るといったコンセプトの記事です。
徳之島の伊仙村(現伊仙町)出身で、戦後は名瀬市長も務めた泉ですが、戦前は教員を務めるかたわら詩人としても活動し、10年ほどは東京に在住していました。その頃光太郎とも親交を結び、光太郎も出席した座談会の司会を務めたり、自身の主宰する雑誌の題字を光太郎に揮毫して貰ったりした他、光太郎と同じ書籍や雑誌に寄稿することもしばしばでした。戦後も光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手から帰京した直後の昭和27年(1952)に、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問しています。くわしくはこちら。
先月の奄美群島の日本復帰70周年。今一つ報道されなかったように感じています。九州の地方紙などでは改めて占領下を振り返る特集記事などが出ていましたが……。沖縄が永らく米軍統治の扱いだったことは歴史の教科書にも記載がありますが、小笠原諸島、そして奄美群島もそうであったことは忘れられつつあるように思われます。ウクライナの件など、世界的にも領土問題が顕在化しているこの時期、過去に学ぶ必要をひしひしと感じるのですが……。
【折々のことば・光太郎】
おハガキ二通及「週刊朝日」二冊、珍しい新聞一束拝受、ありがたく存じました。 小屋の写真はよくうつつてゐると思ひました。談話の筆記は所々間違へたりしてゐます。ともかく、こんな小屋に独居自炊してゐると思つて下さい。人家からは三丁程離れた山腹で下に見える湧き水の水を汲んで炊事してゐます。勝手元の厨芥を夜兎が来てたべるやうです。鼠は夕方遠くからやつて来て小生の座辺へも平気で来ます。大切なローソクをかぢるのは閉口です。
昭和21年(1946)3月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳
光太郎の元に送られた『週刊朝日』のうち、この年2月24日号(第48巻第7号)には、花巻郊外旧太田村の光太郎の暮らしぶりが紹介されました。この手の記事としては最も早い時期のものの一つです。
題して「雪にもめげず 疎開の両翁を東北に訪ふ」。故郷・山形に居た斎藤茂吉も紹介されています。
少し前にご紹介した佐高真氏著『反戦川柳人 鶴彬の獄死』の中で、歴史作家の藤沢周平が同郷の茂吉に対し、戦後も皇国史観から抜け出せず、戦争協力への反省も行わなかったことを痛烈に批判したことが紹介されています。また佐高氏もこう書いています。
光太郎より一つ年上だった茂吉は、一九四五年の四月に故郷に疎開し、大石田の名家の離れに住んだ。その時、茂吉六十三歳。妻子と離れての独居で病気をしたりもしているが、上下二部屋ずつある家で、光太郎の小屋とは比ぶべくもなかった。また、結城哀草果とか板垣家子夫とか、地元の歌の弟子が献身的に世話をしている。
光太郎も太田村の山小屋に入る前は、花巻町の佐藤隆房邸に厄介になっており、佐藤や宮沢賢治実弟の清六らが献身的に世話してくれていました。その生活を続けなかったところにも光太郎の偉さがあるというわけですね。