6月に発行された書籍です。少し前に手に入れていたのですが、紹介するタイミングを失っていました。

賢治学+(プラス)【第3集】

2023年6月20日 岩手大学人文社会学部 宮沢賢治いわてセンター編 杜陵高速印刷出版部刊
定価1,800円+税

平素は「岩手大学 人文社会科学部 宮沢賢治いわて学センター」の活動へのご理解・ご支援・ご協力を賜り、誠にありがとうございます。当センターの第2回シンポジウムなどを特集した『賢治学+(プラス)』第3集が刊行されました。ご高覧いただければ幸いです。
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目次
《巻頭言》横山英信「『賢治学+(プラス)』第三集に寄せて」
《特集「盛岡藩の言論と出版」》
 〈報告〉宮沢賢治いわて学センター第二回シンポジウム
「盛岡藩の言論と出版」(木村直弘)
 〈総評〉宮沢賢治いわて学センター第二回シンポジウム「盛岡藩の言論と出版」(脇野 博)
 講演①「直訴と目安箱からみる盛岡藩政――南部利済の時代に注目して――」(兼平賢治) 
 講演②「盛岡藩における出版事業――盛岡・花巻・遠野――」(中村安宏)
 シンポジウム「盛岡藩の言論と出版」
 〈ディスカッション〉(司会:脇野 博、シンポジスト:兼平賢治、中村安宏)
《岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター研究会より》
 髙橋 愛「文学ツーリズムとその可能性」
 朴 鍾振「韓国における賢治絵本翻訳の展開――
ヨユーダン出版社の〈宮沢賢治コレクション〉――」 
 桑原尚子「国際開発・国際協力からみた宮沢賢治――
「農民芸術概論綱要」から読み解く――」
 中里まき子+エリック・ブノワ
  講演録「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:
『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」 
 岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター研究会のこれまで
《フォーラム「賢治学」》
〈エッセイ〉
 谷口義明「天文学者、宮沢賢治と遊ぶ――椀コの謎――」
 金野吉晃「賢治随想」
〈論文〉
 大野眞男「『春と修羅』第一集における括弧表現と語りの複層的構造に関する一試論」
 大沢正善「「風野又三郎」と『新編農業気象学』――宮沢賢治の高層気象学――」
 小松田儀貞「宮沢賢治の〈芸術〉――賢治という薬あるいは毒――」
 瀬川愛美「宮澤賢治のオノマトペとフランス語訳――
「なめとこ山の熊」と Les Ours de la Montagne Nametoko──」 
 木村直弘「デクノボーとしてのゴーシュ――愚者が智者となる〈革命〉をめぐって――」
《フォーラム「いわて学」》
〈エッセイ〉
 佐藤竜一「自転車を乗り回した漢学者・那珂通世――夏目漱石との接点をめぐって――」
 船場ひさお「岩手と横浜をつなぐ」
 前田千香子「公園林としての気仙茶の木々」
 寺崎 巖「いわてフィルハーモニー・オーケストラ」
〈論文〉
 家井美千子「岩手大学図書館蔵『十和田山本地由来記』テキストの特徴」
〈編集後記〉 (木村直弘)

昨年の12月22日に開催された「岩手大学人文社会科学部【宮沢賢治いわて学センター】第16回研究会」の記録中の、同大教授・中里まき子氏とボルドー・モンテーニュ大学教授のエリック・ブノワ氏による講演「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」が収められています。「『智恵子抄』仏訳」は、一昨年、フランスのボルドー大学さんから出版された中里氏、ブノワ氏訳の『Poèmes à Chieko』です。
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同書、新潮文庫版『智恵子抄』を底本としていますので、多くの詩篇が訳されていますが、特に「レモン哀歌」(昭和14年=1939)について詳述されています。宮沢賢治いわて学センターさんでのご講演ということもあったのでしょうが、賢治の「永訣の朝」との類似性などが述べられています。光太郎は妻・智恵子、賢治は妹・トシと、それぞれ最愛といえる女性に先立たれ、おのおのの死の瞬間を謳い、そしてその間際に智恵子は「レモン」、トシは「あめゆじゆ」を口にし……。

こうした点は諸家によって夙に指摘されてきたことですが、さらにフランスの思想家、ジョルジュ・バタイユの日記が比較対象として挙げられています。バタイユは明治30年(1897)の生まれで、光太郎より14歳下、賢治とは一つ違い、同世代ですね。バタイユは智恵子が亡くなった同じ昭和13年(1938)、恋人のコレット・ペニョ(通称・ロール)を奇しくも智恵子・トシと同じく結核で亡くしています。そしてロールはその死の間際、智恵子の「レモン」、トシの「あめゆじゆ」と同じように、バタイユから受けとった薔薇の花を、まぁ当然食べはしませんでしたが、口づけをして……というわけで。

ついでに言うなら、ロールは智恵子同様に心の病でもあったようですが、バタイユ曰く「私が薔薇を手渡すと、彼女は異常な状態を抜け出して私に微笑み、はっきりと最後の言葉を述べた。「美しいわ」と言った」。レモンをがりりと噛んだ智恵子は「昔山巓でしたやうな深呼吸を一つ」しただけで言葉は発しませんでしたが、トシは賢治詩「松の針」によれば「ああいい さつぱりした まるで林のながさ来たよだ」とつぶやいたそうで、このあたりの洋の東西を問わない類似性には驚かされました。

それ以外の部分でも、「智恵子抄」中の「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な「樹下の二人」(大正12年=1923)と、戦後の『智恵子抄その後』に収められた「案内」(昭和24年=1949)との比較。「樹下の二人」は智恵子が光太郎に故郷・二本松をガイドするというシチュエーションが謳われていますが、「案内」では、光太郎が亡き智恵子に花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)周辺を紹介するという、主客の逆転といった点について述べられています。なるほど、と思いました。

Amazonさん等で入手可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

当地は雪がふかく三尺平均位になり、歩行困難な次第です。寒気も相当で万年筆も使用中に凍ります。幸ひ燃料があるので助かります。


昭和21年(1946)1月11日 矢沢高佳宛書簡より 光太郎64歳

厳寒期にはマイナス20℃にもなるという太田村の山小屋。書いている最中の万年筆のインクまで凍りました。