当会顧問であらせられた故・北川太一先生のさまざまな著作をはじめ、光太郎関連書籍を数多く出して下さっている文治堂書店さんから、PR誌的な『とんぼ』の第17号が届きました。
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4月に亡くなった評論家の芹沢俊介氏の追悼文、文治堂さんから詩集も覆刻されている光太郎と交流のあった詩人・野澤一が暮らした甲州四尾連湖のレポートなどが載っています。北川太一先生ご子息の光彦氏の詩文も。

それから当方の『連翹忌通信』。今年4月に発見した花巻市に残る光太郎が文字を揮毫した墓標についてです。

奥付画像を貼っておきます。ご入用の方は文治堂さんまでご連絡下さい。
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それから、文治堂さん社主の勝畑氏が関わっている「中西利雄アトリエを後世に残すために」という計画の企画書とフライヤーも。
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昭和27年(1952)秋から光太郎が居住し、昭和31年(1956)、その終焉の地となった貸しアトリエの保存運動に関してです。以前にも同じものを頂きましたが、再び。文治堂さんのHPでもこれらが出てきます。

つい先月もちらっと見て参りましたが、いまだに健在のこの建物、きちんと保存し活用が出来るならそれにこしたことはありません。ただ、個人でとなるとなかなか難しいところがあり、運営委員会的な組織が必要とのこと。それはそうでしょうね。光太郎が入る以前はイサム・ノグチもここを使っており、そちら方面からのアプローチもあるようです。

予定では今夏には組織作りや署名活動開始、企画書とは別の小冊子配付となっているのですが、そのあたり、予定通り進行しているのかどうか……。先月辺り見学会的な催しがあったようですが……。

また具体的なことがわかりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生は前に仮寓していた校長先生のお宅から昨日移転して、今度は花巻病院長の佐藤隆房先生のお宅に来ました。宮沢賢治の伝を書かれた先生です。そこの離れの二階が小生の室に宛てられました。四畳半が二間、一方を勉強室、一方が客間といふやうに出来てゐて大層便利です。


昭和20年(1945)9月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

光太郎が潺湲楼(せんかんろう)と名付けた佐藤隆房邸離れ、こちらも現存しています。二度ほど中に入れていただきましたが、なかなかに立派な造作です。ここで暮らし続ければそれなりに快適だったはずなのですが、ここでの生活は1ヶ月あまりで切り上げ、郊外旧太田村の山小屋に入ります。